恐れに溺れる時に信仰によって歩むこと (マタイ 14:22-36)
2020年4月05日(日)| ジョーイ・ゾリーナ牧師
ここ何週か、コロナウィルスを踏まえて、ミニシリーズをしていますが、今日もまた別の有名な聖書箇所から見ていきたいと思います。マタイの福音書14:22-36です。この箇所を読む時、私たちが考えるべき質問があります。あなたは、何かに気持ちがいっぱいいっぱいになる時、何かに圧倒されそうな時、もしくは、恐れの感情に溺れているような気持ちになる時、どうしますか?今日の聖書箇所からの3つのポイントです。1.私たち皆が必要な信仰の刷新 2.私たちの信仰を溺れさせる恐れ 3.私たちの信仰を支えている、全てを支配しておられる御手。
1.私たち皆が必要な信仰の刷新
22~24節
「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟はすでに陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。」
22節で、イエスは弟子たちを群衆から離れさせ舟に乗せた、とあります。「群衆を解散させた」という言葉に注目してください。東京でものすごい人ごみを見たとき、圧倒されますか?イエスは、群衆に圧倒されたから、解散させたのではありません。少し前の14節でイエスは、大勢の群衆を見てひどく「憐れみ」ました。13-21節でのことを頭に置いておいてください。イエスは一つのパンを5000人に分けれるほど増やしたばかりでした。しかし、弟子たちは、パンが増やされたことがどういうことを意味するのかを理解していませんでした。
Q:質問です。あなたは群衆の一部ですか?あなたは遠くからイエスを慕っている人ですか?それとも、イエスと関係の近い弟子ですか?なぜなら、イエスさまがここで弟子たちを群衆から離したのは、彼らを教えるためでした。8章で最初の嵐が起こりました。その時、イエスさまは弟子たちと舟に乗っていました。しかしここでは、舟上から離れることで彼らに教えようとされました。だから23節で、弟子たちを解散させた後、「祈るためにひとり山にお登りになった。」とあります。思い出してください。これはイエスさまの人生でありミニストリー(伝道活動)です。イエスさまは、習慣的にひとりになれる所へ行って、神さまに祈っていました。13節にも「ひとり人里離れた所に退かれた」と書いてあります。あなたがクリスチャンなら、質問です。今こういう時、神さまと2人きりの時間はどういうものですか?あなたは社会的距離をとるこの時間を無駄にしていないですか?
いいですか、イエスさまは、頻繁に、ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)をとっていました。それは、そうせざるを得ない状況だった訳ではなく、ミニストリーの働きの中で必要なことだったからです。イエスさまにとっては、ソーシャル・ディスタンシングは、天の父とのつながりを深めるための方法でした。では、なぜプライベートな祈りの時間がそんなに大切なのでしょうか?
6:6でイエスさまは弟子たちにこう言いました。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見れおられるあなたの父が報いてくださる。」
宗教的な心から祈ると、人々からの承認を求めてしまいます。あなたが1人で祈る時、誰も”宗教的さ”を見せる人はいません。宗教的パフォーマンスをする必要がありません。神さまだけがあなたの会衆だからです。神さま以外にあなたの祈りを聞いている人はいません。だから、そこに霊的誠実さがあるのです。もう一つ、ヨハネ6:15で、イエスさまが群衆を解散させたのは、群衆がイエスさまを王とならせようとしたからです。彼らは、ローマ帝国の抑圧から助けてくれる、政治的な救い主を求めていました。しかし、皮肉なことに、「イエスは群衆を解散させ、1人で祈った」のです。イエスは、世間的な栄光と王冠を得るために来たのではありませんでした。だから、「祈るためにひとり山にお登りになった。」のです。その目的は、祈るためでした。新鮮な空気を吸いに行くためではなく、内側から新しくされるために祈ることでした。いいですか、あなたが気晴らしにする、iPhoneやゲーム、ガジェットなどの中にいる”群衆”から離れるとき、不快な静かさに直面します。私たちの多くは、ゲームやガジェットなどのスイッチを切って、ただ神さまと時間を過ごす時まで、どれほど非霊的状態にいたのか、気づきません。そのような不快な静かさの中で、私たちは、どれほど自分が忍耐がなく、落ち着きがないかに気づきます。その心地よくない静けさの中で、神さまの内にいる時に、弱い自分でいられることの意味を理解し始めます。23節では、「夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」とあります。
いいですか、人間的な肉体を持ったイエスさまには限界がありました。ミニストリーや仕事に求められるものが多くなると、イエスさまも祈りによって霊的に新しくされるため、長い時間が必要でした。24節で、「ところが舟はすでに陸からとても離れており、逆風のために波に悩まされていた。」とあります。私たちはよくこう思います。「神さまが私たちと一緒にいるなら、なぜ嵐が私たちに向かってくるのか?」嵐はよく私たちを吹き飛ばします。なぜなら、この世界が、あるべき姿にないからです。病気の嵐、苦しみの嵐、不確実な嵐、混沌、混乱の嵐、そしてアダムの罪による死。しかし、22節でなんと言っていたか覚えていますか?「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ行かせ」弟子たちを向こう岸に行かせるために舟に乗せたのはイエスさまでした。イエスさまは嵐を避けて、ではなく、嵐の中を通って導かれていました。では次のポイントを見ていきましょう。
2.私たちの信仰を溺れさせる恐れ
25~28節
「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐに彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペテロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペテロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついたので怖くなり、沈みかけたので『主よ、助けてください』と叫んだ。」
25節を見てください。「夜が明けるころ」(午前3時から6時の間を指します) イエスは弟子たちの所に行かれた。湖の上を歩いて。イエスは、私たちにはどうにもできない水のトラブルを超えて、彼が支配されていることを現されました。イエスさまは、祈っている時、弟子たちが困ったことになっていることを知っていました。しかし、イエスは急ぎませんでした。イエスは彼のタイミングで来ました。「夜が明けるころ」イエスさまは、弟子たちに、時間を超えて、水、太陽、星、宇宙、海を超えて自分が支配しておられることを弟子たちにここで見せています。ここで私たちが見るのは、自分の力ではもう何もできなくて困っている弟子たちです。湖の真ん中で、この世的な安全は剥ぎ取られ、彼らの全ての限界に達しました。前に私が言ったように、私たちのコントロールを超えた状況は、私たちの心が本当に何を信頼しているかが表れます。私たちを取り巻く難しい状況の波は、私たちがコントロールしているのではなく、イエスさまだということを思い出させてくれます!
では、弟子たちはどのように応答したのでしょう?26節では、彼らはおびえ、「幽霊だ!」と言った、とあります。そして恐怖のあまり叫び声を上げました。確かに、夜中の海の上を歩いているイエスさまを見たら、ちょっと怖くなりますよね?しかし、27節では、イエスは”すぐに”話しかけられた、とあります。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエスさまが、嵐を鎮める前に、弟子たちの恐れを鎮めているのが分かりますか?私たちが嵐の真ん中で必要なのは、イエスさまが一緒にいるという慰めです!イエスさまは言いました。「わたしだ。自然を超えて支配しているわたしだ。恐ることはない。」
Q:質問です。あなたは、正しいことを恐れていますか?弟子たちは、ここで幽霊を恐れました。しかし、恐れられるべきは、水をも支配する方です。それでも、イエスさまは、まず彼らを気にかけ、声をかけました。すごくないですか?神を恐れることは、トラを恐れるのとは違います。もちろんトラの近くに行くことは危険です。しかし、きよい神さまから離れることはもっと危険です。トラから身を守るには、虎から逃げることです。しかしきよい神さまから身を守る方法は、神さまに身を近づけることです。これが、27節でイエスさまがしたことです。まず弟子たちの所へ来て、落ち着かせ、安心させ、間違った恐れを抱いていることを正しました。イエスは、「安心しなさい。わたしだ。(神であるわたしだ。水を支配しその上を歩けるわたしだよ。)恐れないで。」いいですか、イエスさまは、この苦しみのある世界に来るために人間の姿になってくれた神さまです。罪がもたらした混沌や、混乱の中に入ってこられました。風や嵐や海が私たちに向かって吹き荒れる壊れた世界にこられました。彼は私たちのために嵐を切り抜けるために来られました。言い換えると、イエスさまがどんな方であるかという私たちの理解は、人生が晴れていて明るい時だけではなく、暗い嵐の中でさえ、豊かになっていくということです。そして28節でペテロはイエスさまに答えます。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」”わたしに命令して。。。” あなたは、神さまの命令に、このように従順ですか?最近の時代の人々は、神さまに従ったら個人的な自由を失ってしまうと考えます。彼らは、そのような”要求してくる神”が彼らの個人的自由を脅かすと思い込んでいます。しかし29節で、ペテロは文字通り、”水の上を歩き”ました。ここでの”歩く”という言葉は、”動き”を意味します。静かなのではありません。本当の信仰はアクティブなものです。神の御言葉に対して”行動する”ことです。たとえ、リスクを伴うことだとしても、それがあなたの人生に犠牲を払うことだとしても、です。信仰と従順さは切っても切れない関係です。見てください、ペテロは実際、舟から降りました。彼は未知で、馴染みのない”水”への一歩を踏み出したのです。人間が水の上に一歩を踏み出して沈まないなんて馬鹿げていると思いませんか?しかし、神さまに従うということは、時にそういうことなのです。もし、私たちが完全に理解できることにだけ従っているとしたら、それは信仰ではありません。じゃあ、キリスト教って、盲目の信仰なの?違います!信仰は合理的なものです。水を支配しておられる力強い神に従いたいと思える合理的なものなのです。しかし、それは屈辱的で不快でもありました。他の弟子たちがペテロが水の上に足を踏み出すのを見ていたからです。神さまに従うとは、時に、他の人々の目から見ると馬鹿げているように見えることがあります。ペテロの頭によぎったことを想像できるのではないでしょうか?”もし失敗したらどうしよう?” ”もし、あいつらに自分の信仰をばかにされたら?” ”失敗しても神さまは受け入れてくれるだろうか?” ”もし健康と仕事を失ったら?””もし沈んで、恐怖の中溺れたら?””誰が将来、わたしを気にかけてくれる?” もしかしたら、あなたもこのような思いを持ったことがあるかもしれません。しかし、ペテロは、それでもイエスさまに従いました!さて、ペテロが従ったことは、完璧だったでしょうか? 全然そんなことはありませんでした!それが、ここで神さまが私たちに見てほしいことです。
30節では「しかし、強い風に気がついたので怖くなり、沈みかけたので『主よ、助けてください』と叫んだ」とあります。ペテロはイエスさまから目を離したほんの一瞬で沈み始めました。私たちの信仰は、水のトラブルを通るのに十分ではありません。クリスチャンの信仰は、私たちのもろさや弱さを隠すのではなく、私たちの不完全さ、人間さを表します。
分かりますか?ペテロはイエスさまを見ていた時は問題なく水の上を歩いていました。信仰は、単純にイエスさまを見ているということです。しかし、ペテロが強い風を見て、イエスさまから目を離した時に、怖くなったのです!もしあなたの信仰が、イエスさまではない他の物にあるのなら、いつも麻痺した恐れの中に生きていることになります。テレビでニュースを見る時、日々、心の中で恐れが大きくなることを感じます。どんな時でも、イエスさまから目を離してしまい、自分の周りの風の変化を見ると、恐れに圧倒されます。私たちのコントロールを超えた状況は、私たちの心の中にある、コントロールしたい欲求の偶像を見せられます。ここで、私たちは、経済、産業、社会的安全、健康、病気、そして死でさえ、私たちに向かってくるこれらの”風”を私たちはコントロールできないという現実にまた直面します。私たちが、ソーシャル・ディスタンスを強いられる時、ついに、自分の落胆している心の偶像に直面することに追い詰められます。偶像は、最終的に私たちを不安、混乱、恐れの海に溺れさせます。じゃあ、どこで私たちは引き返せるのでしょう?どうしたらいいのでしょう?どこを見ればいいのでしょう?30節でペテロは、「主よ、助けてください」と叫んだ、とあります。ペテロは救いのために叫んだのです!私たちが絶望している時に、祈りを聞いてくださる唯一の神に助けを求めて良いのです!なぜなら、私たちの弱さ、繊細さの中で、神さまが私たちに手を差し伸べてくださるからです!では最後のポイントを見ましょう。
3.私たちの信仰を支えている、全てを支配しておられる御手
31-36節
「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして2人が舟に乗り込むと、嵐は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」
イエスさまはペテロにどう応答しましたか?二つのことが見れます。31節の最初で、「イエスはすぐに手を伸ばしてペテロを捕まえた」とあります。私たちをゴールラインに連れて行くのは、自分の力での信仰ではなく、イエスさまの誠実な御手なのです。イエスさまにある信仰は、あなたの信仰がどれほど強いかではなく、イエスさまがどれほど強くあなたを握っているか、なのです。イエスさまは、すぐにペテロに手を伸ばして捕まえました。イエスさまはあなたを素早く捕まえます。イエスさまはあなたを手放しません。イエスさまは恵みによってあなたのところに降りてこられたのです。そして、全てを支配しておられる御手であなたを引き上げてくれます。そして旅の最後の最後まで導いてくれます。しかしここでもう一つ学べることは、31節の後半です。弟子訓練の瞬間ですよね。イエスさまがペテロに聞いた質問です。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」小さい信仰でペテロは不可能に向かって少しの間歩きました。しかし、疑い始めたとき、イエスさまから目をそらしました。だから、イエスさまはこう聞いたのです。「なんで疑ったの?」表面的に答えるなら、こうです。「えっと。。。風が吹いてて、怖くなったからです。」違います。聞きたいことは、”なぜ”疑ったのか?で、何があなたに疑いを与えたか、ではありません!
あなたがクリスチャンなら、あなたの”疑い”を”疑う”ことは大切です。水の上を歩くという可能性を疑うことだけではありません。あなたは、キリスト教の奇跡的事実についてあなたの結論と推測の元は何かを考え、あなた自身の中にある疑いが何なのかよく考える必要があります。ここでイエスはペテロの疑いについてこう聞きました。「何で、疑ったの?」そして32節で、「2人が舟に乗り込むと、嵐は静まった」のです。嵐は、イエスさまがペテロに手を差し伸べる前には静まりませんでした。イエスさまがペテロを捕まえ、彼に質問をした後に静まったのです。そして33節では、「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」とあります。
いいですか、あなたは、毎日、嵐のど真ん中でイエスさまを賛美して過ごすか、もしくは恐れの中で生きて行くことができます。何であれ、私たちが愛着を持っている物が、イエスさまの内にあるものではないなら、私たちは、恐れ、心配、疑いに麻痺された状態になります。しかし、海の上を歩く方、風と海を静めることのできる方、力強い神の子が私たちと共にいます。恵みによって私たちを引き上げるために来られました。少し前で、イエスさまが最初の嵐を静めたとき、(8章27節)弟子たちは、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえを従うではないか。」と言いました。しかし今回は33節、『本当に、あなたは神の子です!』と言いました。やっと、イエスさまがどういうお方であるかを理解し始めたのです!
34節の言葉を注意深く見てください。「一行は湖を渡り」この言葉がとても重要なのが分かりますか?22節では、イエスは弟子たちを先に向こう岸へ行かせました。ここでは、「湖を渡り」とあります。どこを渡ったのでしょう?35節では、ゲネサレトという土地へ渡ったと書いてあります。いいですか、イエスさまが来る700年前に、イザヤ書43:2で、神さまは預言者を通してこう語っています。「水の中を通る時も、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。。。」旧約聖書で、モーセは紅海を渡る時、弟子たちの祖先たちを導きました。しかし海の上を歩き、弟子たちを湖の向こうへ渡らせたイエスさまは、モーセよりも偉大です。そして、この時からそれほどの日数も経たないうちに、イエスさまが園で再び祈るのを見ます。そこでイエスさまは弟子たちにこう言いました。
マタイ26:38-39
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」
イエスさまは、とても悲しいとはどういうことであるかを理解していました。彼は、「私の魂は、死にそうなほどとても悲しんでいる」と言いました。イエスさまは、恐れの中で生きることがどういうことか分かっていました。彼は、神の裁きを畏れて弱さを感じていました。イエスさまは、「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と言いました。分かりますか?イエスさまは、私たちを裁きに来たのではなく、私たちに対しての神の裁きを代わりに受けに来てくださったのです。旧約聖書で出てくるヨナは、嵐の中にいました。なぜなら彼は神に従わなかったからです。イエスさまは、私たちの不従順さに対する神の裁きを受けにきてくれたのです。私たちが最大の嵐を切る抜けるために、私たちに恵みをもたらすために、十字架にかかってくださったのです。私たちが飲むべきだった裁きの杯を代わりに飲んでくださったのです。私たちが赦されるために裁かれたのです。十字架の上で最大の苦痛に耐えてくださったのです。そして私たちの恐れを信仰に変えるために来てくださったのです。だから、あなたがキリストの内にあるなら、あなたは文字どおり、死の岸から命の岸へと渡ったのです。もしイエスさまがあなたのために最大の嵐に耐えてくださったとしたら、明日何が起こっても直面できます。人生があなたにもたらすどんなことも、直面できるのです。
だから、35-36節で「それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」とあります。人々は、イエスさまが嵐を通って、彼らを癒しにいたことを知っていたでしょうか?イエスさまは、私たちを癒すために大きな嵐を耐えられました。私たちを癒すために苦しまれました。ここでの癒しは、将来、イエスさまが全ての人を癒し、全てを新しくする神の国がくることのしるしです。いつの日か、イエスさまは戻ってきて、世界を癒し、この世界があるべき姿になるように回復させます。そしてイエスさまが戻る時、私たちを湖の向こう岸へと連れて行ってくれるのです。そこは、病気も、死もない命に溢れた場所です。
恐れでいっぱいの弱い弟子たちは、最終的に喜びにあふれ、神のひとり子、イエスさまを賛美しました。だから、今週、毎日の生活の中でイエスさまを賛美しましょう。イエスさまが、私たちが受けるべきだった最大の裁きという嵐を耐えてくださったというこの真実の中で勇気を持ちましょう。そしてこの時期、神さまと2人で過ごす祈りの中で、私たち自身や私たちの周りの人々、世界のために祈りましょう。神さまは、私たちが祈りの中でへり下る時、私たちの祈りを聞き、私たちの国を癒してくださいます。