ザ・ブリッジフェローシップ 東京 The Bridge Fellowship: Tokyo

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激動の時代の中にあるキリストの愛 (ローマ 8:31-39)

2020年3月29日(日)| ジョーイ・ゾリーナ牧師

先週、ローマ書の8:26-30を見ました。パウロが紀元後50年にコリントから書いたものです。現在の苦しみと、将来の栄光への希望との間で起こる葛藤について語っています。今日私たちが考えてみる質問はこれです。この世界的な感染拡大の真っ只中で、絶対に変わらないものは何でしょうか?31~39節から3つのポイントを一緒に見ていきましょう。1. 私たちの味方である神さま 2.私たちを脅かす危険なもの 3. 私たちを安全に守ってくれるキリストの愛

1.私たちの味方である神さま

31節~34節「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜わらないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるのでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、いや、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのためにとりなしてくださるのです。」

パウロがこう言っていることに気づいてください。「これらの素晴らしいことについて何と言ったらいいのだろう?!」パウロはその前の聖書箇所から福音を喜び祝っていました。そして、良いカウンセラーのように、私たちが神さまを賛美することを助ける質問をここでしています。彼はこう言いました。「もし神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できますか?」さて、神さまはどんな方法で私たちの敵ではなく味方であることを証明してくれたのでしょうか?

パウロは32節でこう言っています。「私たちのためにそのひとり子さえ惜しまずに死にわたされた」、「神のひとり子は私たちのために死に、そして復活してくれた。」(34節)、「聖霊が私たちのためにとりなしをしてくれる。」(少し前の26節にて)パウロは、「もし神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できる?」ここでパウロが言っている「私たち」とは誰のことでしょうか?それは、キリストにある人々のことを言っています。

もしあなたがキリストの内にいないなら、最大の危険は、肉体的に何かが起こることではありません。最大の危険は、もし聖なる神があなたの敵になったら?!ということです。想像できますか?あなたがキリストの内にいないなら、全宇宙を支配する神があなたの敵であるという恐ろしさを考えてみてください!もし神さまがあなたの敵だったら、ただ一つ助かる方向は、神さまの元へ行って、今日、憐れみを求めることです。32節でパウロが言っていることを見てください。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方が、御子と一緒にすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょうか。」ここにあなたのための恵みがあるのです!

しかし、人間の心の問題は、全てのキリスト以外のものを求めてしまうことです。パウロが1章で言っているように、心の中の偶像は、すべての創造主である神ご自身よりも造られたものを愛してしまうのです。32節にある「惜しむ」(Spare)ということばに注目してみてください。ローマ書の中で恐ろしい意味もあります。11章21節でパウロは「神がイスラエル人たちを惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」と言っています。しかし、創世記(Genesis)22章12節では、神さまはアブラハムに同じことば(spare)を使ってこう言っています。「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた。」ここで、神さまは、アブラハムに、イサクを惜しみ、その代わりに子羊を捧げるように言われました。そしてパウロはこのローマ書で、「神さまは、あなたの罪のために自分のたった一人の息子を犠牲とすることを惜しまなかったんだよ。」そして、神がそうしたなら、「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに恵んでくれないわけがないじゃないか。」今、経済も不安定なこの混乱の時は、不安と恐れが私たちの周りを取り囲みます。しかし、パウロは言います。「もし神さまが、本来なら絶対手放したくない、彼の最高のものを私たちにくれたのなら、他の全てのものをくれないわけがないじゃないか?」そして33節でこう続けます。「神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。人を義としてくださるのは神なのです。」

「訴える」ということばは、法廷で使われる法的用語です。それは、「法廷で、公的批判をする」もしくは「告発する」という意味です。さて、悪魔は神の人々への「告発者(いつも私たちを責めてくる)」です。(黙示録12:10)

しかし、パウロは言います。「悪魔の告発が根拠のあるものだとしても、奴らは神の法廷には立つことができない。なぜなら、私たちを義としてくれたのは神だからだ。」なぜ?キリストが私たちのために死んでくださったからです。キリストは、私たちの罪悪感、罪、恥を取り去ってくださいました。それゆえに、悪魔の告発は私たちに敵対することができないのです!分かりますか?神さまがご自身のひとり子を私たちに与えることを惜しまなかったから、私たちは責めを受けるのに惜しまれているのです。パウロは、34節で「キリストがあなたへの責めを取り去られた」と言っています。だから、キリストの内にいる人々は責められないのです。(それが8章1節でパウロが言っていることです。ーキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。ー)

もし神さまが私たちの最大の必要ーイエスさまーを与えてくれたなら、必ず私たちを完全にきよめてくれます!ですから、もう一度これを考えてみてください。「もし神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるのか?」悪魔は私たちに敵対できない。私たちの罪も私たちに敵対できない。もしあなたが罪悪感や恥、自分を責める気持ちに苛まれているなら、もう一度これを聞いてください。あなたの心はあなたを責めることはできない、なぜならイエスさまがあなたの責めを根本的に取ってくださっているから!神の前ではどんな人のことばでさえもあなたを責めることはできない。あなたが福音にあってどれほど安全かを知りたかったら、誰かがあなたを責めた時にあなたがどう応答するかを見てください。責めを感じて自分を守ろうとしますか?もしくは、34節にあるように、パウロと共に「誰が私たちを罪に定めることができるのか?キリストだけが私のために死に、よみがえった。私を義として罪に定めないために!」と応答しますか?神があなたを責めていないとしたら、なぜあなたは責めを感じているのですか?人々は、あなたを打ち砕くほどあなたに何もできないし、言えないのです!あなたを義としたのが神さまなら、あなたはもはや自分で自分を義とするために必死になって疲れたりしなくていいのです!あなたは永遠に、法廷に自分の身を置こうとしなくて良いのです!法廷は休廷です!全宇宙の裁判官が、あなたは無罪だと言っているのです!神はあなたの味方です!あなたの罪は解決したのです!あなたは神のために自由に生きることができるのです!いいですか、全ての力と権威を持った、全宇宙の神はあなたの敵ではなく、味方なのです。そしてパウロは言います。イエスさまは今、「神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」さあ、この真実がどれほど深くあなたの心に根づいているか知りたかったら、試練が来た時にあなたがどう応答するかを見てみましょう。では、次のポイントを見ていきます。

2.私たちを脅かす危険なもの

35~36節「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。患難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか。『私たちは、あなたのために一日中死にさらされ、ほふられる羊のように見られている。』と書いてあるとおりです。

パウロはここで、現実にある脅威の状況に福音の真実を持ってチャレンジをしていますよね?35節でパウロは「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができるのか?」と言っています。35節にリストアップされていることは私たちの安全に脅威を与えますよね?「飢え(famine)」ということばを見てください。あなたは飢えていますか?コロナウィルスによって人々は経済にとても恐れを抱いています。覚えていてください。パウロはここでも現在の苦しみについて話しています。(18節に書いてあること)いいですか、人生の困難な状況や苦しみを通して、私たちが本当に何を信頼しているかが現れます。困難な状況は、私たちに、自分の心を見させ、私たちが信じていると言っているものを私たちが本当に信じているのかを試すのです。

「患難、苦難(tribulations)」ということばを見ましょう。それは、どんなことでもあなたの霊に重荷をもたらすものです。それは、苦痛、苦難、試練を意味します。患難は私たちの安全が、究極的にどこにあるかを表します。パウロは22節で「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」と書いています。赤ちゃんを産もうとしている女性のイメージです。そして35節にある「苦しみ」は、ものすごく大きな不安、悲しみ、そして、赤ちゃんが出てくるような、狭い場所からぎゅーっと押し出される痛みのようなものです。不安はあなたにダメージを与えていますか?世界中で人々がロックダウンにより苦しんでいます。苦しみは、あなたの心の偶像の一つ、”神様より心快適さを求めること”(Comfort)を砕きます。それは、私たちが自分の人生を自分でコントロールしているという幻想を打ち砕きます!今まで、実は自分の人生が自分のコントロールの内にはなかったと、気づいていた人はいますか?頭では知っていたかもしれません。しかし、今、そのことがあなたの心の中で現実身を帯びているのではないでしょうか?

言い換えると、苦しみは私たちを壊すのではなく、磨きをかけるものです。実際のところ、あなたがキリストの愛をよく知っていたとしても知らないとしても、大変な困難には直面します。そのような困難の時に、キリストの愛はただの理論ではないことに気づきます。例えば、36節にある「裸」ということばに注目してください。それは貧困を指します。しかし、霊的な裸のことも意味します。黙示録3:17で、イエスさまはラオディケア教会のことを、「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」と呼んでいます。いいですか、神の支配の中では、苦しみは霊的な裸をさらけ出すのです。それは、神さまから隠せるものは何一つないということです。それは、私たちは何て弱く、もろいものかということです!私たちは心の中で、まるで洋服を着るように、心を隠そうとします!どれほど心の深いところで隠したいと望んでいるかを表します。見てください、苦しみは、本当の貧しさは、私たちの心の貧しさだということを思い出させてくれます。休むことなくある恐れの下に、霊的な貧しさがあるのです。しかし、ここに良い知らせがあります。35節でパウロはこう言っています。「キリストの愛が私たちの裸を覆うために来てくれた。」キリストは、私たちのためにこの苦しみの世界に来て、この最大の苦痛を十字架の上で耐えられたのです。私たちのためにです!イエスは、私たちが服を着れるように、ご自身が裸になったのです。イエスは、私たちが飢えないように、ご自身が乾かれたのです。パウロは、こう言います。「苦しみ、飢え、裸がキリストの愛から私たちを離しますか?」

今の私たちの苦しみは、より深くキリストの愛の内に行けることを意味します。苦しみは、快適さ、安全、便利さではできない方法で、私たちをキリストの愛に近づけます。28節でパウロが言っていたことを覚えていますか?「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」そして、ここでまたこう言います。「誰がキリストの愛から私たちを離すことができるのか?もし私たちがキリストの内にいたら、ここにリストアップされていることは、究極的に、あなたに敵対しているのではなく、あなたの益のためになっていくのだ。神さまは、神さまの全ての支配の中で、これらの試練が起こることを許可し、私たちがキリストの姿に従えるように、私たちの心をキリストに倣ってより美しくするために、私たちがよりキリストのようになれるように(先週29節で見たように)するためです。だから、パウロがここで基本的に言っているのはこうです。「クリスチャンは、苦しみや殺されることさえからも免除されてるわけではない。36節では「『私たちは、あなたのために一日中死にさらされ、ほふられる羊のように見られている。』と書いてあるとおりです。」とあります。初期のクリスチャンはローマ帝国から本当にひどい迫害を受けていました。パウロ自身も彼の人生とミニストリーの中で緊迫した苦しみを経験しました。

ですから、パウロはローマにある教会に、神の人々は苦難に直面しなければならない、何人かの人には殉教も含むことを思い出させるために、詩篇44:22(神はなお、それを探り出されます。心に隠していることを神は必ず知られます。)を用いました。この時代、初期の教会では、毎日少なくとも一人のクリスチャンが殉教していました。神と福音のために苦しんでいる私たちの兄弟、姉妹が、です。だからパウロはこう言います。「あなたのために、私たちは一日中死にさらされている。(現在進行形)」クリスチャンたちは、肉屋で売られる動物と同じ扱いを受けることがあります。パウロはこう言います。「私たちは、ほふられる羊のように見られている。」そして、こうも言っています。彼らは、神のために耐えた。どうして彼らはそんなことができたのか?その理由はイエスさま。羊飼いが、彼らのために、子羊の捧げ物となって殺されたから。彼らは、ローマ帝国の剣を恐れませんでした。なぜなら、キリストの究極の剣が彼らと共にあったからです。

だから、神が私たちの味方であるなら、苦難もなく、迫害もなく、裸もなく、危険も、病気も、私たちをキリストから引き離す剣もないのです!イエスさまは、私たちが神の愛から絶対に二度と引き離されることがないように、ご自身が父なる神と引き離される苦しみを経験されたのです。十字架の上で、私たちの代わりに責めを受け、最大の苦しみを経験されたのです。だから、私たちに敵対する全てのものはキリストの愛から私たちを引き離すものは何もないのです。

さあ、最後のポイントを見ていきましょう。

3.私たちを安全に守るキリストの愛

37-39節「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これら全ての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」

35節のパウロの質問から、彼はこう続けています。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これら全ての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」これら全てのこととは?35節にあったような、「患難、苦しみ、経済破綻、コロナウィルス感染拡大」。この全ての中にあっても、キリストの中にあって圧倒的な勝利者となる。と言っています。キリストの愛が、あなたが直面する全ての苦しみからあなたを強化すると言っています。あなたの内におられる素晴らしい勝利者、キリストのゆえに、あなたはどんなことにも勇気を持って直面することができるのです。ここで使われている「勝利者」とは軍隊の言葉です!敵に、完全に勝利することを表しています。これは素晴らしい勝利の絵図です!そしてこの軍隊の勝利の絵図はローマにいるクリスチャンたちに素晴らしい勇気を与えました。しかし、注意してみて欲しいのは、「これら全ての中にあっても、圧倒的な勝利者となる」ことです。勝利者という言葉は、例えて言うと、戦いで囚われている囚人たちを解放し勝利の行列へと導くということです。これが、パウロがコロサイ2:15で言っているように、イエスさまがしてくださったことです。「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」第2コリント2:14では、またこう言っています。「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じていたるところにキリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」

だから、パウロがここで言っているのは、私たちは、キリストを通しているからただの勝利者じゃない。圧倒的な勝利者だということです。キリストを通して、なのです。命をかけるほど私たちを愛し、私たちのためによみがえり、そして、今、神の右の座に着いておられるのです。そして、イエスの絶対になくならない愛によって、私たちは、圧倒的な勝利者として、どんなことにも直面できるのです!これがどういうことか分かりますか?クリスチャンの希望は、ただのポジティブ思考や、ポジティブな心理学よりはるかにポジティブなのです。

パウロが前述していたことを思い出してください。36節、「私たちは一日中、死にさらされています。」?じゃあ、どうやってこの、一日中死にさらされている人々が、圧倒的な勝利者となれるのか?それはこういうことです。死は、私たちにとって、ストーリーの最後ではありません。死はその勝利を失ったのです!誰も死に打ち勝った人はいません。死は多くの帝王を打ち砕きました。しかし、イエスは死からよみがえったのです!イエスは死を経験され、私たちの圧倒的な勝利者として生き返ったのです!あなたが人生に何回のパンチを食らうかは関係ありません。ダウンするかもしれません。しばらくの間、負けたかのように感じることもあるかもしれません。しかし、あなたはまた立ち上がるのです!なぜならあなたは、イエスさまを通して圧倒的な勝利者だからです!!それは、あなたの力ではありません。キリストを通して、キリストが与えてくれる力と恵みによって、あなたは再び起き上がることができるのです。だから、キリストの内にある全ての人は、もはや死を通り過ぎ、生きるのです。

次に、38節でパウロはこう言っています。「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」ここに注目してください。「私はこう確信しています。」

このような不確かな時の中で、私たちには分からないことがたくさんあります。私たちは近い未来のことも分かりません。明日、何が起こるかも分かりません。私たちの健康のことも分かりません。経済のことも分かりません。苦しみがいつ終わるかも分かりません。しかし、ただ一つだけ確かなことがあります。パウロは言います。「一つだけ確かなことは、私たちの現在の全ての苦しみを超えて続くものがある。永遠だ。永遠に続くものだ。」パウロは続けます。「私は確信している。これだけは、確かなのだ。」パウロは、どんどん変化のある状況の真っ只中で、この素晴らしい、変わらない真実に確信を持っていました。なぜなら、イエスさまが十字架の上で、天の父に見捨てられることを私たちの代わりに経験してくださったからです。もはや神の愛からあなたを引き離すものは何一つありません。なぜなら、本来なら、私たちが受けるべき、神との離別、苦しみをイエスさまが十字架の上で負ってくださったからです。そこまでしてくれたイエスさまがいるなら、神の愛からあなたを引き離すものは何もあり得ません。

最後に、39節を見てみると、私たちが自分で自分を救うことができることは何もないと分かります。それは、全て、神の支配しておられる恵みゆえなのです!全部、神さまがしておられることなのです!キリストと共にある私たちの未来は安全です!何も、「私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない」のです!この約束は、私たちから神への愛が元になっているのではありません。イエス・キリストにある、私たちへの神の愛ゆえの約束です。これが、パウロが確信していることなのです!私たちから神への愛ではなく、イエス・キリストを通した私たちへの、絶対になくならない、変わらない愛ゆえに、私たちの未来は安全です。

キリストの愛は、変化のある状況の真っ只中で、ただ一つ、唯一変わらないものです。キリストの愛は私たちが、今この時を通って、その後に神の栄光へ入っていくように導かれます。神さまが私たちの味方なら、何も、誰も、どんなことでも、私たちに敵対することはできないのです!神さまが私たちの味方だから、キリストの愛から私たちを引き離すものは何もないのです!だから、永遠に続くキリストの愛の中で、慰めを受け、勇気を持ちましょう。そして、私たちの周りにいる人々も、ただ神さまの中にのみ、慰めを勇気を見つけられるように、私たちを通して神さまの愛が溢れ流れていきますように。

Sermon Video in English
Rom. 8: 31- 39 | Pastor Joey Zorina | The Love of Christ in Turbulent Times