なぜ地域教会のメンバーになるのか? パート1

なぜ地域教会のメンバーになるのか? パート1

ジョーイ・ゾリーナ牧師

私たちは皆、キリストの普遍的な体の一部であるのに、どうして地域教会に 属するべきなのでしょうか?下記はなぜクリスチャンが地域教会に属し、コ ミットするべきかの理由です。

お互いを愛するため

イエスは弟子たちにこう言われました。「わたしはあなたがたに新しい戒め を与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、 あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34

イエスは十字架の上で愛せないような罪人たちに完璧な愛を示しました。 で すから、すべての信者はキリストがわたしたちを愛してくたさったように 「互いに愛する」べきなのです。これには深い意味があります。例えば、ヘ ブル10:24-25にはこう書かれています。「また、愛と善行を促すために、互 いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの 集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいている ことが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」 

集会の目的は、「愛と善い行いのために互いに励まし合う方法を考えるこ と」です。共に集まらない「ある人たちの習慣」がありました。ですから、 著者は「自分たちの集まりをやめたりせず」「互いに励まし合い」なさいと いうのです。そして、このことは「(主の)日が近づいているのを見るにつ け、なおさら(減るのではなく)」でなければならないのです。そのため信 者の体にコミットしなければ、私たちは愛と励ましから自分を切り離すこと になるのです。しかし、私たちが地元の教会に属するべき理由は他にもあり ます。

不完全なリーダーに倣うため

後のヘブル13章で、著者は「神のことばをあなたがたに話した指導者たちの ことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その 信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」と語っています。教会は神のことばを語るリータた ちのことを覚えておくものです。もし信者が完璧なリーダーから倣うとした ら、その完璧な方はイエスの他にはいません。しかし、召命と資格によっ て、牧師や長老として仕えるリーダーたちはいます。(1テモテ3:1-7)彼らは 完璧なキリストに従い神のことばを語る、不完全で敬虔なリーダーたちで す。クリスチャンたちは「彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その 信仰に倣う」ことです。

ですから、もし地域教会に属してなければ信者たちはどのリーダーに倣えば いいのでしょうか?個人的に会ったこともないSNS 上のリーダーにどうやっ て倣うのでしょうか?一緒に会っていないなら、どうやって「彼らの生き方 から生まれたものをよく見る」ことができるのでしょうか?会うことを怠っ ていたら、どうやってリーダーたちの信仰に倣うことができるのでしょう か? 偉大な羊飼いであるイエスが彼の教会を導く方法は、イエスに仕える リーダーたちを通してです。8節には 「イエス・キリストは、昨日も今日 も、とこしえに変わることがありません。」と書かれています。初期の弟子 たちを導いた同じイエスは、「今日」彼の教会を導くイエスと同じ方です。

恵みによって強められるため

クリスチャンたちは、リーダーなら誰でも従うのではなく、神のことばを話 すリーダーに倣うべきです。(ヘブル13:7) 神のことばはクリスチャンの集ま りの中において恵みの手段です。著者は、様々な異なった教えによって迷わ されてはいけないと考えています。彼は「様々な異なった教えによって迷わ されてはいけません。食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは 良いことです。食物の規定にしたがって歩んでいる者たちは、益を得ません でした。」(13:9)と言っています。迷わされるとは、羊の衣を着た狼が私 たちを間違った道に連れ去るということです。(マタイ7:15、使徒20:29)

少し前の章で著者は「『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、 だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。」(ヘフル3:13)と述 べています。ですから、もし地域教会に属していないなら、誰と「日々互い に励まし合う」のでしょうか? 「お互いに」の命令をどうやって実践するの でしょうか?罪のずる賢い性質は私たちの心を頑なにさせ、迷わせます。 錨を降ろしていない船はゆっくりと広大な海へ流されていきます。事実、著者 は「私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されない ようにしなければなりません。」と言っています。(ヘブル2:1) 罪は欺くもの なので、漂流はゆっくりと起こり、気づきにくいものです。 

相互責任のない個人主義的な霊性は、聖書の中に見当たりません。それは、 グローバルな時代の中で個人主義によって形成された現代の考え方です。 「お互いに」はコミュニティにおける生活であり、単独生活ではありませ ん。ですから、孤立したクリスチャンは「罪の惑わしによって頑なになり」 やすく、悪魔の多くの誘惑の餌食になります(1ペテロ5: 8)。律法主義的な教えが浸透していた初代教会のように、今日も「様々な異なっ た教え」が多く存在します。そしてこれらの教えについて「それにしたがっ て歩んでいる者たちは、益を得ませんでした。」とあります。今日、 現代人 は聖書の権威を機能的に低く見て、自分を高く誇張して見ています。多くの 点でこれらの「様々な異なった教え」は、恵みの福音に根ざした健全な教え とは対照的です。ですから、私たちが定期的に他のクリスチャンたちと会 い、健全な教えにしたがうとき、私たちの心は恵みによって強められるので す。 ヘブル13:9にも「恵みによって心が強められることは、良いことです 」 と書かれています。地域教会に所属するべき理由は次に続きます。 

イエスに結びつくため

ヘブル書の著者はこう続けています。

「10 私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕えている者たちには、この 祭壇から食べる権利がありません。11 動物の血は、罪のきよめのささげ物として、大祭司によって聖所の中に持って行かれますが、からだは宿営の外で 焼かれるのです。12 それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものと するために、門の外で苦しみを受けられました。13 ですから私たちは、イエ スの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。 14 私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ 来たるべき都を求めているのです。15 それなら、私たちはイエスを通して、 賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。16 善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そ のようないけにえを、神は喜ばれるのです。」 

私たちがイエス以外のものを求めて教会に行くなら失望するでしょう。イエ スはご自身の血を流し、私たちを聖別するためエルサレムの街の門の外で苦 しまれました。私たちが来たるべき永遠の都に入ることができるように、門 の外で苦しみを受けられたのです。ですから、その日が来るまでの間、私た ちの聖化のために教会が必要なのです。13節にはこう書かれています。「で すから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こ うではありませんか。」

イエスの辱めを身に負うとは、自己中心的考えと個人主義的な霊性に死ぬこ とです。地域教会に習慣的に集まることは誰がイエスを代表しているのかを 世に知らせる方法です。 共に集まった教会として、私たちは一緒に神をほめ たたえるいけにえを捧げます。私たちが集まる時、善を行なうことと分かち 合うことを求めます。「そのようないけにえを神は喜ばれる」からです。 (16節) 最後に、地域教会に属する理由は、私たちの益のため羊飼いの下に 服従するためです。 

私たちの益のために服従するため

「17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人 たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張り をしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きなが らすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益には ならないからです。」

この聖句が取り上げられることはほとんどありません。なぜならリーダーが 自分自身について話すことを恥ずかしがるからです。クリスチャンはしばし ば民主主義のレンズを持って聖句を読み、すべての権威は本質的に悪いもの だと思い込んでいます。しかし、職場でさえ、誰もが良い上司の下で働くこ とを楽しみます。 私たちの過去の経験が現在の認識を影響するので、この聖 句を見て、誤った意味で捉える人もいます。ですから、私たちは他の人が誤 用したからといって、この聖句を避けるべきではありません。むしろ、この 聖句は神の霊感によって書かれたことばですから、私たちはこの聖句に新た に近づかなければなりません。私たちが権威を信頼しないことは、聖書の権 威について自分自身の思い込みを疑うきっかけになるはずです。 現代人は、 権威の下に身を置くことを嫌います。しかし、すべての始まりはエデンの園 で、アダムが神の権威のもとで栄えるのではなく、自分が主人になると決め たときからです。 それ以来、堕落した人々は、家庭、職場、そして教会でさ えも、あらゆる権威者に服従することが難しくなってしまいました。しか し、イエスはこれを回復するために来られたのです。

全ての権威は神からのもので、私たちの益のためです。イエスは私たちが天 の父に従えなかったことを完全に従いました。イエスは私たちが受けるべき 非難を受けるために門の外へ行きました。私たちは門の外に投げ出され、決 して戻ってくることができないはずでした。しかし、イエスが私たちを中に 入れるために外に投げ出されたのです。(12,13節)ですから著者は17節で こう言っているのです。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また 服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのた ましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそ のことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでない と、あなたかたの益にはならないからです。」

「あなたのリーダーの言うことを聞きなさい。」と言っています。彼らは自 分のことばではなく、神の権威あることばを私たちに語っているからです。 そして「服従しなさい。この人たちは、あなたがたのたましいのために見張 りをしているのです。」ですから、もし地域教会に属していないなら、クリ スチャンたちはどのリーダーに聞き従えば良いのでようか?どのリーダーが クリスチャンたちの責任を負ってくれるのでしょうか?こう書かれていま す。「この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないよ うにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」 

リーダーたちは第一にイエス・キリストから喜びを得ています。彼らはキリ ストの元へ行き、キリストが耐えられた非難に耐えるように召されていま す。侮辱、裏切り、苦難を受け、キリストのように敵を赦し、愛するように 召されているのです。このようなリーダーたちに教会メンバーは聞き従うよ うに求められているのです。教会が従順と服従を欠いてリーダーを嘆かせる ことは、教会にとって不利に働きます。なぜなら、嘆いているリーダーは会衆によく仕えることができないからです。クリスチャンたちは喜びに満ちた リーダーの下で繁栄します。クリスチャンたちは教会への接し方によって、 キリストをどう思っているかを示します。ですから、すべての教会メンバー は人間の体に多くの部分があるように、体の局所的な表現の一部を担ってい ます。(1コリント12:12-27)

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