どうしたら聖書を読むのが面倒な事ではなく、祝福の宴となるのか

This article was first published on Redeemer City to City blog (in English HERE).

幼少時代、私は母にスプーンでご飯を食べさせてもらっていました。今は太平洋を隔てて暮らしているため家族で食事を取る事は滅多にありませんが、母にスプーンで食べさせてもらう必要は無くなりました。子供時代のある時を境に、自分で食べられるようになったからです。

私たちには肉体的な空腹と同様に、霊的な空腹も存在します。神と共に歩むには、日々の霊的に健全な食生活が必要です。生活、仕事、宣教及び奉仕活動において、良い霊的食物を食べずに自分自身の力により頼むことは、燃料の入っていない車を運転するようなものです。燃料が無くても下り坂なら少しは進むかもしれません。ですが、上り坂や平らな道では、エンジンに火をつける燃料が無ければ進むことはできません。心の中に神の言葉の種を植えなければ、良い実を結ぶ事はできないのです。

日曜日の説教はこの空腹を満たすために必要不可欠ですが、私たち自身でも聖書の御言葉を噛みしめ、栄養を摂る必要があります。赤ちゃんは空腹時に誰かに食べさせてもらう必要があります。そして成長すると自分で食べられるようになります。

それでは、私たちはどのように霊的な空腹に気づき、日々神の恵みの食卓で祝宴を持つ事ができるでしょうか?いくつか助けとなる原則を紹介したいと思います。

  1. 恵みに気づく

聖書を読むのが義務的で重荷に感じるような環境の教会で育った人もいるでしょう。それがまるで業務のように。今この記事を読んでいる人の中にも、今日そのように感じた人がいるのではないでしょうか。私自身の日記にも、以前は聖書を読む事が面倒に感じていた事が書かれていましたー恵みによる動機から聖書を読むという、新しい理解を得るまでは。D.A.カーソンは霊的鍛錬を追い求める努力の必要性について、このように記しています。

「人は自然に聖さへと流される事は無い。恵みに基づく努力が無ければ、人は敬虔さ、祈り、聖書への従順、信仰、主への喜びへと引き寄せられる事は無い。」(For the Love of God, Vol. 2)

それはつまり、聖書を読むのは偶然には起こらないという事です。集中した努力が無ければ、私たちは霊的に中途半端な栄養状態になります。毎日ジャンクフードを食べて生活する事を想像できますか?霊的なジャンクフードも同じくらい不健康です。心は冷え切ってしまい、罪に惑わされてかたくなになってしまいます(ヘブライ3:13)。

しかし、私たちの多くが継続して聖書を読む事に失敗してしまいますーそして多くの人がその事に罪悪感を抱きます。ですが良い知らせがあります。神は私たちが聖書を読めないからといって私たちを愛さない訳でも、聖書を読む事でより愛される訳でもありません。イエスは私たちが生きる事のできなかった人生を生きられました。イエスは神の律法を黙想し、それを破る事はありませんでした。イエスこそが詩編1:1,2で描写されている、「主のおしえを喜びとし、昼も夜も そのおしえを口ずさむ人」なのです。イエスの救いにある恵みは、私たちに新しい食欲を与えます。霊的な幼児食から、さらに求めるようにと。私たちに新しい欲求、好み、愛を持つ新しい心を与え、イエスが成された業への愛を与えて下さいます。そのため、他の良い習慣と同様に、聖書に黙想する事は時間をかけて築かれる、恵みによる習慣なのです。恵みを認識しそれに基づき行動する事は、聖書を学ぶ喜びへと導きます。

2. 聖書箇所をゆっくりと祈りながら読む

私は朝目覚めると、今日取り組むべき課題との格闘へ向けて心の準備が整っています。しかし、恵みによる努力と自分自身の努力には違いがあります。心の内面は活動的で、常に休む事なく忙しさに追われ、集中力を欠いています。

フランスの数学的であり哲学者でもあるブレーズ・パスカルはこのように述べています。「人が抱える問題の多くは、人が一人で静かに部屋にいられない事から生じる」

パスカルによると、私たちは沈黙や退屈さを恐れるために、心の奥深くにある欲求を埋めるものを絶えず追い求めてしまうそうです。最近では、前日の夜遅くに同僚から送られてきた「急ぎの」メールを確認する事が私たちの普通の状態となっています。iPhoneやiPad、パソコンを確認するのが、私たちが朝まず行う事になっているのではないのでしょうか。

心は絶えず何かを求めていますー考察やアイデア、人々、場所など。頭の中は神以外のものを礼拝しようと常に何かを探しています。これは意志の強さと努力により修正できるような問題ではありません。忙しさに追われない、祈りの時間を通して、私たちの愛情が呼び覚まされる必要があります。それは神に必要を求めるだけの祈りではありません。神を礼拝する祈りです。

聖書朗読と祈りのために時間が裂けるよう、意図的にペースを緩める事はとても重要です。そうすれば、祈りは私たちの考えを静め、聖書の神に私たちの心の中心を置く助けとなるでしょう。時には、それは聖書箇所を神に祈り返す事でもありますー焦らず、賛美をもって、賞賛と感謝で、全ての聖書箇所を味わいながら(まるで神の言葉を味わうかのようにーそしてその通りなのです)。私はこれを神の御言葉に呼吸すると呼んでいます、なぜなら聖書は神の霊感(息)によるものだからです(2テモテ3:16)。

このような静まる時間を持つ時、私の内にある休まらない心の声が大きくなり、自分の考えを静める必要があると認識するのです。私たちの心はせわしなく、整えられる必要があります。その過程でさえ、祈りの始まりとなります。また、昔の聖人たちも日々の業務や課題に取り組む前に、神の御前で心を静める事の大切さを学んでいます。「講談のプリンス」とも称されたチャールズ・スポルジョンはかつてこのように問いかけました。「毎朝何時に起床していますか?15分早く起きる事さえ困難ですか?もちろんできるでしょう!夕飯にかける時間はどの程度ですか?長時間ですね。その後はきっとつまらない読み物を読むのでしょう。では、なぜその時間を自身の魂を静め、吟味する時とできないのでしょうか。キリスト教徒は神の御前での神聖な黙想の時間を持たない限り、神により頼む姿勢にはならないでしょう。神を最も知る人は、神に最も黙想する人です。神の恵みの教義を最も認識する人は、この地の物が届かなくなる程に黙想する人です。」(Meditation on God: September 2nd, 1900)

不運にも、つまらない読み物は増加し、今日では毎朝受信トレイを浸食し、私たちの祈りを妨げます。

カーソンが指摘したように、聖書を読むことは意図的な祈りを伴います。なぜなら聖書は神の霊感による、超自然的なものだからです。聖書を歴史的・文学的観点から理解し、合理的に理解しようと学ぶ事は可能です。しかし霊的な気づきが与えられなければ、私たちへ変化や感動がもたらされる事はありません。パウロはエペソの教会へ、彼らの心の目がはっきり見えるように祈りました(エペソ1:18)。詩編の作者は、気づきを求めて「私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえにある奇しいことに。」(詩編119:18)と祈りました。聖書箇所を祈り、気づきを求め、そこに目を留めましょう。

3.集中した黙想により心を温める

聖書を読んだ後も、心が冷めたままの時があります。そのため、私たちは聖書を広く読むだけでなく、深く読む必要があります。意図的に長い時間をとって聖書の真実を黙想する事で、1の章、時には1つの聖書箇所や言葉でさえ、霊の働きにより心の中でダイアモンドのように光輝く事があります。パウロはテモテにこのように言いました「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに与えてくださいます。」(2テモテ2:7)。

聖書は頭で理解するだけでなく、心の中で感じ、経験する事ができます。聖書を読んだ後、人生における悲しみや葛藤、困難から心が解放されていたいと望みませんか?私たちの欲求に対し、恵みの教義を深く経験する方法は、スポルジョンが述べたように「この地の物が届かなくなる程に黙想する」事です。スポルジョンは続けてこう述べています。

「黙想は魂をしなやかにするー頭の中へ何かが入って来た時、それを用いる事ができるように。論議に勝つのはどのような人でしょうか?一人の時に黙想する人です。説教ができるのはどのような人でしょうか?遊び歩き、自身の心と向き合わない人ではありません。そうではなく、一人でいる時も人々に囲まれている時でも、熱心に考える人です。本を執筆し、継続的に文学を提供するのはどのような人ですか?黙想する人々です。彼らは継続的に黙想という油に浸かる事で、骨をしなやかに、足を運動に適した状態に維持しているのです。それでは、私たちの心を継続的に奉仕へ整えるため、黙想は心の運動としてどれほど重要なのでしょうか!」

福音の真理を黙想する事は、一日を通して喜びと礼拝の心を目覚めさせます。黙想こそがーゆっくりと考え、休止し、思い返し、真理に呼吸する事でー私たちは大きな報いと喜びを発見します。詩編の作者がこう言ったように。「私は大きな獲物を見つけた者のように あなたのみことばを喜びます」(詩編119:162)

ですから、神の律法に黙想し完全な人生を歩んだキリストの恵みの上に、私たちの希望があります。私たちは神への従順と祈りの生活において、神の基準を満たす事に失敗しましたが、イエスがその基準を満たされました。御言葉を通してイエスに近づく中で、私たちの霊的な食欲が呼び覚まされ、イエスへの大きな愛が新しく与えられます。イエスを日々求める事で、私たちの心は再び、イエス自身と彼が成された業への驚きと感嘆に満たされるのです。

ジョーイゾリナ牧師。