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激動の時代の中にあるキリストの愛 (ローマ 8:31-39)

2020年3月29日(日)| ジョーイ・ゾリーナ牧師

先週、ローマ書の8:26-30を見ました。パウロが紀元後50年にコリントから書いたものです。現在の苦しみと、将来の栄光への希望との間で起こる葛藤について語っています。今日私たちが考えてみる質問はこれです。この世界的な感染拡大の真っ只中で、絶対に変わらないものは何でしょうか?31~39節から3つのポイントを一緒に見ていきましょう。1. 私たちの味方である神さま 2.私たちを脅かす危険なもの 3. 私たちを安全に守ってくれるキリストの愛

1.私たちの味方である神さま

31節~34節「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜わらないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるのでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、いや、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのためにとりなしてくださるのです。」

パウロがこう言っていることに気づいてください。「これらの素晴らしいことについて何と言ったらいいのだろう?!」パウロはその前の聖書箇所から福音を喜び祝っていました。そして、良いカウンセラーのように、私たちが神さまを賛美することを助ける質問をここでしています。彼はこう言いました。「もし神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できますか?」さて、神さまはどんな方法で私たちの敵ではなく味方であることを証明してくれたのでしょうか?

パウロは32節でこう言っています。「私たちのためにそのひとり子さえ惜しまずに死にわたされた」、「神のひとり子は私たちのために死に、そして復活してくれた。」(34節)、「聖霊が私たちのためにとりなしをしてくれる。」(少し前の26節にて)パウロは、「もし神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できる?」ここでパウロが言っている「私たち」とは誰のことでしょうか?それは、キリストにある人々のことを言っています。

もしあなたがキリストの内にいないなら、最大の危険は、肉体的に何かが起こることではありません。最大の危険は、もし聖なる神があなたの敵になったら?!ということです。想像できますか?あなたがキリストの内にいないなら、全宇宙を支配する神があなたの敵であるという恐ろしさを考えてみてください!もし神さまがあなたの敵だったら、ただ一つ助かる方向は、神さまの元へ行って、今日、憐れみを求めることです。32節でパウロが言っていることを見てください。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方が、御子と一緒にすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょうか。」ここにあなたのための恵みがあるのです!

しかし、人間の心の問題は、全てのキリスト以外のものを求めてしまうことです。パウロが1章で言っているように、心の中の偶像は、すべての創造主である神ご自身よりも造られたものを愛してしまうのです。32節にある「惜しむ」(Spare)ということばに注目してみてください。ローマ書の中で恐ろしい意味もあります。11章21節でパウロは「神がイスラエル人たちを惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」と言っています。しかし、創世記(Genesis)22章12節では、神さまはアブラハムに同じことば(spare)を使ってこう言っています。「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた。」ここで、神さまは、アブラハムに、イサクを惜しみ、その代わりに子羊を捧げるように言われました。そしてパウロはこのローマ書で、「神さまは、あなたの罪のために自分のたった一人の息子を犠牲とすることを惜しまなかったんだよ。」そして、神がそうしたなら、「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに恵んでくれないわけがないじゃないか。」今、経済も不安定なこの混乱の時は、不安と恐れが私たちの周りを取り囲みます。しかし、パウロは言います。「もし神さまが、本来なら絶対手放したくない、彼の最高のものを私たちにくれたのなら、他の全てのものをくれないわけがないじゃないか?」そして33節でこう続けます。「神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。人を義としてくださるのは神なのです。」

「訴える」ということばは、法廷で使われる法的用語です。それは、「法廷で、公的批判をする」もしくは「告発する」という意味です。さて、悪魔は神の人々への「告発者(いつも私たちを責めてくる)」です。(黙示録12:10)

しかし、パウロは言います。「悪魔の告発が根拠のあるものだとしても、奴らは神の法廷には立つことができない。なぜなら、私たちを義としてくれたのは神だからだ。」なぜ?キリストが私たちのために死んでくださったからです。キリストは、私たちの罪悪感、罪、恥を取り去ってくださいました。それゆえに、悪魔の告発は私たちに敵対することができないのです!分かりますか?神さまがご自身のひとり子を私たちに与えることを惜しまなかったから、私たちは責めを受けるのに惜しまれているのです。パウロは、34節で「キリストがあなたへの責めを取り去られた」と言っています。だから、キリストの内にいる人々は責められないのです。(それが8章1節でパウロが言っていることです。ーキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。ー)

もし神さまが私たちの最大の必要ーイエスさまーを与えてくれたなら、必ず私たちを完全にきよめてくれます!ですから、もう一度これを考えてみてください。「もし神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるのか?」悪魔は私たちに敵対できない。私たちの罪も私たちに敵対できない。もしあなたが罪悪感や恥、自分を責める気持ちに苛まれているなら、もう一度これを聞いてください。あなたの心はあなたを責めることはできない、なぜならイエスさまがあなたの責めを根本的に取ってくださっているから!神の前ではどんな人のことばでさえもあなたを責めることはできない。あなたが福音にあってどれほど安全かを知りたかったら、誰かがあなたを責めた時にあなたがどう応答するかを見てください。責めを感じて自分を守ろうとしますか?もしくは、34節にあるように、パウロと共に「誰が私たちを罪に定めることができるのか?キリストだけが私のために死に、よみがえった。私を義として罪に定めないために!」と応答しますか?神があなたを責めていないとしたら、なぜあなたは責めを感じているのですか?人々は、あなたを打ち砕くほどあなたに何もできないし、言えないのです!あなたを義としたのが神さまなら、あなたはもはや自分で自分を義とするために必死になって疲れたりしなくていいのです!あなたは永遠に、法廷に自分の身を置こうとしなくて良いのです!法廷は休廷です!全宇宙の裁判官が、あなたは無罪だと言っているのです!神はあなたの味方です!あなたの罪は解決したのです!あなたは神のために自由に生きることができるのです!いいですか、全ての力と権威を持った、全宇宙の神はあなたの敵ではなく、味方なのです。そしてパウロは言います。イエスさまは今、「神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」さあ、この真実がどれほど深くあなたの心に根づいているか知りたかったら、試練が来た時にあなたがどう応答するかを見てみましょう。では、次のポイントを見ていきます。

2.私たちを脅かす危険なもの

35~36節「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。患難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか。『私たちは、あなたのために一日中死にさらされ、ほふられる羊のように見られている。』と書いてあるとおりです。

パウロはここで、現実にある脅威の状況に福音の真実を持ってチャレンジをしていますよね?35節でパウロは「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができるのか?」と言っています。35節にリストアップされていることは私たちの安全に脅威を与えますよね?「飢え(famine)」ということばを見てください。あなたは飢えていますか?コロナウィルスによって人々は経済にとても恐れを抱いています。覚えていてください。パウロはここでも現在の苦しみについて話しています。(18節に書いてあること)いいですか、人生の困難な状況や苦しみを通して、私たちが本当に何を信頼しているかが現れます。困難な状況は、私たちに、自分の心を見させ、私たちが信じていると言っているものを私たちが本当に信じているのかを試すのです。

「患難、苦難(tribulations)」ということばを見ましょう。それは、どんなことでもあなたの霊に重荷をもたらすものです。それは、苦痛、苦難、試練を意味します。患難は私たちの安全が、究極的にどこにあるかを表します。パウロは22節で「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」と書いています。赤ちゃんを産もうとしている女性のイメージです。そして35節にある「苦しみ」は、ものすごく大きな不安、悲しみ、そして、赤ちゃんが出てくるような、狭い場所からぎゅーっと押し出される痛みのようなものです。不安はあなたにダメージを与えていますか?世界中で人々がロックダウンにより苦しんでいます。苦しみは、あなたの心の偶像の一つ、”神様より心快適さを求めること”(Comfort)を砕きます。それは、私たちが自分の人生を自分でコントロールしているという幻想を打ち砕きます!今まで、実は自分の人生が自分のコントロールの内にはなかったと、気づいていた人はいますか?頭では知っていたかもしれません。しかし、今、そのことがあなたの心の中で現実身を帯びているのではないでしょうか?

言い換えると、苦しみは私たちを壊すのではなく、磨きをかけるものです。実際のところ、あなたがキリストの愛をよく知っていたとしても知らないとしても、大変な困難には直面します。そのような困難の時に、キリストの愛はただの理論ではないことに気づきます。例えば、36節にある「裸」ということばに注目してください。それは貧困を指します。しかし、霊的な裸のことも意味します。黙示録3:17で、イエスさまはラオディケア教会のことを、「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」と呼んでいます。いいですか、神の支配の中では、苦しみは霊的な裸をさらけ出すのです。それは、神さまから隠せるものは何一つないということです。それは、私たちは何て弱く、もろいものかということです!私たちは心の中で、まるで洋服を着るように、心を隠そうとします!どれほど心の深いところで隠したいと望んでいるかを表します。見てください、苦しみは、本当の貧しさは、私たちの心の貧しさだということを思い出させてくれます。休むことなくある恐れの下に、霊的な貧しさがあるのです。しかし、ここに良い知らせがあります。35節でパウロはこう言っています。「キリストの愛が私たちの裸を覆うために来てくれた。」キリストは、私たちのためにこの苦しみの世界に来て、この最大の苦痛を十字架の上で耐えられたのです。私たちのためにです!イエスは、私たちが服を着れるように、ご自身が裸になったのです。イエスは、私たちが飢えないように、ご自身が乾かれたのです。パウロは、こう言います。「苦しみ、飢え、裸がキリストの愛から私たちを離しますか?」

今の私たちの苦しみは、より深くキリストの愛の内に行けることを意味します。苦しみは、快適さ、安全、便利さではできない方法で、私たちをキリストの愛に近づけます。28節でパウロが言っていたことを覚えていますか?「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」そして、ここでまたこう言います。「誰がキリストの愛から私たちを離すことができるのか?もし私たちがキリストの内にいたら、ここにリストアップされていることは、究極的に、あなたに敵対しているのではなく、あなたの益のためになっていくのだ。神さまは、神さまの全ての支配の中で、これらの試練が起こることを許可し、私たちがキリストの姿に従えるように、私たちの心をキリストに倣ってより美しくするために、私たちがよりキリストのようになれるように(先週29節で見たように)するためです。だから、パウロがここで基本的に言っているのはこうです。「クリスチャンは、苦しみや殺されることさえからも免除されてるわけではない。36節では「『私たちは、あなたのために一日中死にさらされ、ほふられる羊のように見られている。』と書いてあるとおりです。」とあります。初期のクリスチャンはローマ帝国から本当にひどい迫害を受けていました。パウロ自身も彼の人生とミニストリーの中で緊迫した苦しみを経験しました。

ですから、パウロはローマにある教会に、神の人々は苦難に直面しなければならない、何人かの人には殉教も含むことを思い出させるために、詩篇44:22(神はなお、それを探り出されます。心に隠していることを神は必ず知られます。)を用いました。この時代、初期の教会では、毎日少なくとも一人のクリスチャンが殉教していました。神と福音のために苦しんでいる私たちの兄弟、姉妹が、です。だからパウロはこう言います。「あなたのために、私たちは一日中死にさらされている。(現在進行形)」クリスチャンたちは、肉屋で売られる動物と同じ扱いを受けることがあります。パウロはこう言います。「私たちは、ほふられる羊のように見られている。」そして、こうも言っています。彼らは、神のために耐えた。どうして彼らはそんなことができたのか?その理由はイエスさま。羊飼いが、彼らのために、子羊の捧げ物となって殺されたから。彼らは、ローマ帝国の剣を恐れませんでした。なぜなら、キリストの究極の剣が彼らと共にあったからです。

だから、神が私たちの味方であるなら、苦難もなく、迫害もなく、裸もなく、危険も、病気も、私たちをキリストから引き離す剣もないのです!イエスさまは、私たちが神の愛から絶対に二度と引き離されることがないように、ご自身が父なる神と引き離される苦しみを経験されたのです。十字架の上で、私たちの代わりに責めを受け、最大の苦しみを経験されたのです。だから、私たちに敵対する全てのものはキリストの愛から私たちを引き離すものは何もないのです。

さあ、最後のポイントを見ていきましょう。

3.私たちを安全に守るキリストの愛

37-39節「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これら全ての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」

35節のパウロの質問から、彼はこう続けています。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これら全ての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」これら全てのこととは?35節にあったような、「患難、苦しみ、経済破綻、コロナウィルス感染拡大」。この全ての中にあっても、キリストの中にあって圧倒的な勝利者となる。と言っています。キリストの愛が、あなたが直面する全ての苦しみからあなたを強化すると言っています。あなたの内におられる素晴らしい勝利者、キリストのゆえに、あなたはどんなことにも勇気を持って直面することができるのです。ここで使われている「勝利者」とは軍隊の言葉です!敵に、完全に勝利することを表しています。これは素晴らしい勝利の絵図です!そしてこの軍隊の勝利の絵図はローマにいるクリスチャンたちに素晴らしい勇気を与えました。しかし、注意してみて欲しいのは、「これら全ての中にあっても、圧倒的な勝利者となる」ことです。勝利者という言葉は、例えて言うと、戦いで囚われている囚人たちを解放し勝利の行列へと導くということです。これが、パウロがコロサイ2:15で言っているように、イエスさまがしてくださったことです。「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」第2コリント2:14では、またこう言っています。「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じていたるところにキリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」

だから、パウロがここで言っているのは、私たちは、キリストを通しているからただの勝利者じゃない。圧倒的な勝利者だということです。キリストを通して、なのです。命をかけるほど私たちを愛し、私たちのためによみがえり、そして、今、神の右の座に着いておられるのです。そして、イエスの絶対になくならない愛によって、私たちは、圧倒的な勝利者として、どんなことにも直面できるのです!これがどういうことか分かりますか?クリスチャンの希望は、ただのポジティブ思考や、ポジティブな心理学よりはるかにポジティブなのです。

パウロが前述していたことを思い出してください。36節、「私たちは一日中、死にさらされています。」?じゃあ、どうやってこの、一日中死にさらされている人々が、圧倒的な勝利者となれるのか?それはこういうことです。死は、私たちにとって、ストーリーの最後ではありません。死はその勝利を失ったのです!誰も死に打ち勝った人はいません。死は多くの帝王を打ち砕きました。しかし、イエスは死からよみがえったのです!イエスは死を経験され、私たちの圧倒的な勝利者として生き返ったのです!あなたが人生に何回のパンチを食らうかは関係ありません。ダウンするかもしれません。しばらくの間、負けたかのように感じることもあるかもしれません。しかし、あなたはまた立ち上がるのです!なぜならあなたは、イエスさまを通して圧倒的な勝利者だからです!!それは、あなたの力ではありません。キリストを通して、キリストが与えてくれる力と恵みによって、あなたは再び起き上がることができるのです。だから、キリストの内にある全ての人は、もはや死を通り過ぎ、生きるのです。

次に、38節でパウロはこう言っています。「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」ここに注目してください。「私はこう確信しています。」

このような不確かな時の中で、私たちには分からないことがたくさんあります。私たちは近い未来のことも分かりません。明日、何が起こるかも分かりません。私たちの健康のことも分かりません。経済のことも分かりません。苦しみがいつ終わるかも分かりません。しかし、ただ一つだけ確かなことがあります。パウロは言います。「一つだけ確かなことは、私たちの現在の全ての苦しみを超えて続くものがある。永遠だ。永遠に続くものだ。」パウロは続けます。「私は確信している。これだけは、確かなのだ。」パウロは、どんどん変化のある状況の真っ只中で、この素晴らしい、変わらない真実に確信を持っていました。なぜなら、イエスさまが十字架の上で、天の父に見捨てられることを私たちの代わりに経験してくださったからです。もはや神の愛からあなたを引き離すものは何一つありません。なぜなら、本来なら、私たちが受けるべき、神との離別、苦しみをイエスさまが十字架の上で負ってくださったからです。そこまでしてくれたイエスさまがいるなら、神の愛からあなたを引き離すものは何もあり得ません。

最後に、39節を見てみると、私たちが自分で自分を救うことができることは何もないと分かります。それは、全て、神の支配しておられる恵みゆえなのです!全部、神さまがしておられることなのです!キリストと共にある私たちの未来は安全です!何も、「私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない」のです!この約束は、私たちから神への愛が元になっているのではありません。イエス・キリストにある、私たちへの神の愛ゆえの約束です。これが、パウロが確信していることなのです!私たちから神への愛ではなく、イエス・キリストを通した私たちへの、絶対になくならない、変わらない愛ゆえに、私たちの未来は安全です。

キリストの愛は、変化のある状況の真っ只中で、ただ一つ、唯一変わらないものです。キリストの愛は私たちが、今この時を通って、その後に神の栄光へ入っていくように導かれます。神さまが私たちの味方なら、何も、誰も、どんなことでも、私たちに敵対することはできないのです!神さまが私たちの味方だから、キリストの愛から私たちを引き離すものは何もないのです!だから、永遠に続くキリストの愛の中で、慰めを受け、勇気を持ちましょう。そして、私たちの周りにいる人々も、ただ神さまの中にのみ、慰めを勇気を見つけられるように、私たちを通して神さまの愛が溢れ流れていきますように。

Sermon Video in English
Rom. 8: 31- 39 | Pastor Joey Zorina | The Love of Christ in Turbulent Times

恐れに溺れる時に信仰によって歩むこと (マタイ 14:22-36)

2020年4月05日(日)| ジョーイ・ゾリーナ牧師

ここ何週か、コロナウィルスを踏まえて、ミニシリーズをしていますが、今日もまた別の有名な聖書箇所から見ていきたいと思います。マタイの福音書14:22-36です。この箇所を読む時、私たちが考えるべき質問があります。あなたは、何かに気持ちがいっぱいいっぱいになる時、何かに圧倒されそうな時、もしくは、恐れの感情に溺れているような気持ちになる時、どうしますか?今日の聖書箇所からの3つのポイントです。1.私たち皆が必要な信仰の刷新 2.私たちの信仰を溺れさせる恐れ 3.私たちの信仰を支えている、全てを支配しておられる御手。

1.私たち皆が必要な信仰の刷新

22~24節
「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟はすでに陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。」

22節で、イエスは弟子たちを群衆から離れさせ舟に乗せた、とあります。「群衆を解散させた」という言葉に注目してください。東京でものすごい人ごみを見たとき、圧倒されますか?イエスは、群衆に圧倒されたから、解散させたのではありません。少し前の14節でイエスは、大勢の群衆を見てひどく「憐れみ」ました。13-21節でのことを頭に置いておいてください。イエスは一つのパンを5000人に分けれるほど増やしたばかりでした。しかし、弟子たちは、パンが増やされたことがどういうことを意味するのかを理解していませんでした。

Q:質問です。あなたは群衆の一部ですか?あなたは遠くからイエスを慕っている人ですか?それとも、イエスと関係の近い弟子ですか?なぜなら、イエスさまがここで弟子たちを群衆から離したのは、彼らを教えるためでした。8章で最初の嵐が起こりました。その時、イエスさまは弟子たちと舟に乗っていました。しかしここでは、舟上から離れることで彼らに教えようとされました。だから23節で、弟子たちを解散させた後、「祈るためにひとり山にお登りになった。」とあります。思い出してください。これはイエスさまの人生でありミニストリー(伝道活動)です。イエスさまは、習慣的にひとりになれる所へ行って、神さまに祈っていました。13節にも「ひとり人里離れた所に退かれた」と書いてあります。あなたがクリスチャンなら、質問です。今こういう時、神さまと2人きりの時間はどういうものですか?あなたは社会的距離をとるこの時間を無駄にしていないですか?

いいですか、イエスさまは、頻繁に、ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)をとっていました。それは、そうせざるを得ない状況だった訳ではなく、ミニストリーの働きの中で必要なことだったからです。イエスさまにとっては、ソーシャル・ディスタンシングは、天の父とのつながりを深めるための方法でした。では、なぜプライベートな祈りの時間がそんなに大切なのでしょうか?

6:6でイエスさまは弟子たちにこう言いました。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見れおられるあなたの父が報いてくださる。」

宗教的な心から祈ると、人々からの承認を求めてしまいます。あなたが1人で祈る時、誰も”宗教的さ”を見せる人はいません。宗教的パフォーマンスをする必要がありません。神さまだけがあなたの会衆だからです。神さま以外にあなたの祈りを聞いている人はいません。だから、そこに霊的誠実さがあるのです。もう一つ、ヨハネ6:15で、イエスさまが群衆を解散させたのは、群衆がイエスさまを王とならせようとしたからです。彼らは、ローマ帝国の抑圧から助けてくれる、政治的な救い主を求めていました。しかし、皮肉なことに、「イエスは群衆を解散させ、1人で祈った」のです。イエスは、世間的な栄光と王冠を得るために来たのではありませんでした。だから、「祈るためにひとり山にお登りになった。」のです。その目的は、祈るためでした。新鮮な空気を吸いに行くためではなく、内側から新しくされるために祈ることでした。いいですか、あなたが気晴らしにする、iPhoneやゲーム、ガジェットなどの中にいる”群衆”から離れるとき、不快な静かさに直面します。私たちの多くは、ゲームやガジェットなどのスイッチを切って、ただ神さまと時間を過ごす時まで、どれほど非霊的状態にいたのか、気づきません。そのような不快な静かさの中で、私たちは、どれほど自分が忍耐がなく、落ち着きがないかに気づきます。その心地よくない静けさの中で、神さまの内にいる時に、弱い自分でいられることの意味を理解し始めます。23節では、「夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」とあります。

いいですか、人間的な肉体を持ったイエスさまには限界がありました。ミニストリーや仕事に求められるものが多くなると、イエスさまも祈りによって霊的に新しくされるため、長い時間が必要でした。24節で、「ところが舟はすでに陸からとても離れており、逆風のために波に悩まされていた。」とあります。私たちはよくこう思います。「神さまが私たちと一緒にいるなら、なぜ嵐が私たちに向かってくるのか?」嵐はよく私たちを吹き飛ばします。なぜなら、この世界が、あるべき姿にないからです。病気の嵐、苦しみの嵐、不確実な嵐、混沌、混乱の嵐、そしてアダムの罪による死。しかし、22節でなんと言っていたか覚えていますか?「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ行かせ」弟子たちを向こう岸に行かせるために舟に乗せたのはイエスさまでした。イエスさまは嵐を避けて、ではなく、嵐の中を通って導かれていました。では次のポイントを見ていきましょう。

2.私たちの信仰を溺れさせる恐れ

25~28節
「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐに彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペテロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペテロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついたので怖くなり、沈みかけたので『主よ、助けてください』と叫んだ。」

25節を見てください。「夜が明けるころ」(午前3時から6時の間を指します) イエスは弟子たちの所に行かれた。湖の上を歩いて。イエスは、私たちにはどうにもできない水のトラブルを超えて、彼が支配されていることを現されました。イエスさまは、祈っている時、弟子たちが困ったことになっていることを知っていました。しかし、イエスは急ぎませんでした。イエスは彼のタイミングで来ました。「夜が明けるころ」イエスさまは、弟子たちに、時間を超えて、水、太陽、星、宇宙、海を超えて自分が支配しておられることを弟子たちにここで見せています。ここで私たちが見るのは、自分の力ではもう何もできなくて困っている弟子たちです。湖の真ん中で、この世的な安全は剥ぎ取られ、彼らの全ての限界に達しました。前に私が言ったように、私たちのコントロールを超えた状況は、私たちの心が本当に何を信頼しているかが表れます。私たちを取り巻く難しい状況の波は、私たちがコントロールしているのではなく、イエスさまだということを思い出させてくれます!

では、弟子たちはどのように応答したのでしょう?26節では、彼らはおびえ、「幽霊だ!」と言った、とあります。そして恐怖のあまり叫び声を上げました。確かに、夜中の海の上を歩いているイエスさまを見たら、ちょっと怖くなりますよね?しかし、27節では、イエスは”すぐに”話しかけられた、とあります。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエスさまが、嵐を鎮める前に、弟子たちの恐れを鎮めているのが分かりますか?私たちが嵐の真ん中で必要なのは、イエスさまが一緒にいるという慰めです!イエスさまは言いました。「わたしだ。自然を超えて支配しているわたしだ。恐ることはない。」

Q:質問です。あなたは、正しいことを恐れていますか?弟子たちは、ここで幽霊を恐れました。しかし、恐れられるべきは、水をも支配する方です。それでも、イエスさまは、まず彼らを気にかけ、声をかけました。すごくないですか?神を恐れることは、トラを恐れるのとは違います。もちろんトラの近くに行くことは危険です。しかし、きよい神さまから離れることはもっと危険です。トラから身を守るには、虎から逃げることです。しかしきよい神さまから身を守る方法は、神さまに身を近づけることです。これが、27節でイエスさまがしたことです。まず弟子たちの所へ来て、落ち着かせ、安心させ、間違った恐れを抱いていることを正しました。イエスは、「安心しなさい。わたしだ。(神であるわたしだ。水を支配しその上を歩けるわたしだよ。)恐れないで。」いいですか、イエスさまは、この苦しみのある世界に来るために人間の姿になってくれた神さまです。罪がもたらした混沌や、混乱の中に入ってこられました。風や嵐や海が私たちに向かって吹き荒れる壊れた世界にこられました。彼は私たちのために嵐を切り抜けるために来られました。言い換えると、イエスさまがどんな方であるかという私たちの理解は、人生が晴れていて明るい時だけではなく、暗い嵐の中でさえ、豊かになっていくということです。そして28節でペテロはイエスさまに答えます。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」”わたしに命令して。。。” あなたは、神さまの命令に、このように従順ですか?最近の時代の人々は、神さまに従ったら個人的な自由を失ってしまうと考えます。彼らは、そのような”要求してくる神”が彼らの個人的自由を脅かすと思い込んでいます。しかし29節で、ペテロは文字通り、”水の上を歩き”ました。ここでの”歩く”という言葉は、”動き”を意味します。静かなのではありません。本当の信仰はアクティブなものです。神の御言葉に対して”行動する”ことです。たとえ、リスクを伴うことだとしても、それがあなたの人生に犠牲を払うことだとしても、です。信仰と従順さは切っても切れない関係です。見てください、ペテロは実際、舟から降りました。彼は未知で、馴染みのない”水”への一歩を踏み出したのです。人間が水の上に一歩を踏み出して沈まないなんて馬鹿げていると思いませんか?しかし、神さまに従うということは、時にそういうことなのです。もし、私たちが完全に理解できることにだけ従っているとしたら、それは信仰ではありません。じゃあ、キリスト教って、盲目の信仰なの?違います!信仰は合理的なものです。水を支配しておられる力強い神に従いたいと思える合理的なものなのです。しかし、それは屈辱的で不快でもありました。他の弟子たちがペテロが水の上に足を踏み出すのを見ていたからです。神さまに従うとは、時に、他の人々の目から見ると馬鹿げているように見えることがあります。ペテロの頭によぎったことを想像できるのではないでしょうか?”もし失敗したらどうしよう?” ”もし、あいつらに自分の信仰をばかにされたら?” ”失敗しても神さまは受け入れてくれるだろうか?” ”もし健康と仕事を失ったら?””もし沈んで、恐怖の中溺れたら?””誰が将来、わたしを気にかけてくれる?” もしかしたら、あなたもこのような思いを持ったことがあるかもしれません。しかし、ペテロは、それでもイエスさまに従いました!さて、ペテロが従ったことは、完璧だったでしょうか? 全然そんなことはありませんでした!それが、ここで神さまが私たちに見てほしいことです。

30節では「しかし、強い風に気がついたので怖くなり、沈みかけたので『主よ、助けてください』と叫んだ」とあります。ペテロはイエスさまから目を離したほんの一瞬で沈み始めました。私たちの信仰は、水のトラブルを通るのに十分ではありません。クリスチャンの信仰は、私たちのもろさや弱さを隠すのではなく、私たちの不完全さ、人間さを表します。

分かりますか?ペテロはイエスさまを見ていた時は問題なく水の上を歩いていました。信仰は、単純にイエスさまを見ているということです。しかし、ペテロが強い風を見て、イエスさまから目を離した時に、怖くなったのです!もしあなたの信仰が、イエスさまではない他の物にあるのなら、いつも麻痺した恐れの中に生きていることになります。テレビでニュースを見る時、日々、心の中で恐れが大きくなることを感じます。どんな時でも、イエスさまから目を離してしまい、自分の周りの風の変化を見ると、恐れに圧倒されます。私たちのコントロールを超えた状況は、私たちの心の中にある、コントロールしたい欲求の偶像を見せられます。ここで、私たちは、経済、産業、社会的安全、健康、病気、そして死でさえ、私たちに向かってくるこれらの”風”を私たちはコントロールできないという現実にまた直面します。私たちが、ソーシャル・ディスタンスを強いられる時、ついに、自分の落胆している心の偶像に直面することに追い詰められます。偶像は、最終的に私たちを不安、混乱、恐れの海に溺れさせます。じゃあ、どこで私たちは引き返せるのでしょう?どうしたらいいのでしょう?どこを見ればいいのでしょう?30節でペテロは、「主よ、助けてください」と叫んだ、とあります。ペテロは救いのために叫んだのです!私たちが絶望している時に、祈りを聞いてくださる唯一の神に助けを求めて良いのです!なぜなら、私たちの弱さ、繊細さの中で、神さまが私たちに手を差し伸べてくださるからです!では最後のポイントを見ましょう。

3.私たちの信仰を支えている、全てを支配しておられる御手

31-36節
「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして2人が舟に乗り込むと、嵐は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」

イエスさまはペテロにどう応答しましたか?二つのことが見れます。31節の最初で、「イエスはすぐに手を伸ばしてペテロを捕まえた」とあります。私たちをゴールラインに連れて行くのは、自分の力での信仰ではなく、イエスさまの誠実な御手なのです。イエスさまにある信仰は、あなたの信仰がどれほど強いかではなく、イエスさまがどれほど強くあなたを握っているか、なのです。イエスさまは、すぐにペテロに手を伸ばして捕まえました。イエスさまはあなたを素早く捕まえます。イエスさまはあなたを手放しません。イエスさまは恵みによってあなたのところに降りてこられたのです。そして、全てを支配しておられる御手であなたを引き上げてくれます。そして旅の最後の最後まで導いてくれます。しかしここでもう一つ学べることは、31節の後半です。弟子訓練の瞬間ですよね。イエスさまがペテロに聞いた質問です。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」小さい信仰でペテロは不可能に向かって少しの間歩きました。しかし、疑い始めたとき、イエスさまから目をそらしました。だから、イエスさまはこう聞いたのです。「なんで疑ったの?」表面的に答えるなら、こうです。「えっと。。。風が吹いてて、怖くなったからです。」違います。聞きたいことは、”なぜ”疑ったのか?で、何があなたに疑いを与えたか、ではありません!

あなたがクリスチャンなら、あなたの”疑い”を”疑う”ことは大切です。水の上を歩くという可能性を疑うことだけではありません。あなたは、キリスト教の奇跡的事実についてあなたの結論と推測の元は何かを考え、あなた自身の中にある疑いが何なのかよく考える必要があります。ここでイエスはペテロの疑いについてこう聞きました。「何で、疑ったの?」そして32節で、「2人が舟に乗り込むと、嵐は静まった」のです。嵐は、イエスさまがペテロに手を差し伸べる前には静まりませんでした。イエスさまがペテロを捕まえ、彼に質問をした後に静まったのです。そして33節では、「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」とあります。

いいですか、あなたは、毎日、嵐のど真ん中でイエスさまを賛美して過ごすか、もしくは恐れの中で生きて行くことができます。何であれ、私たちが愛着を持っている物が、イエスさまの内にあるものではないなら、私たちは、恐れ、心配、疑いに麻痺された状態になります。しかし、海の上を歩く方、風と海を静めることのできる方、力強い神の子が私たちと共にいます。恵みによって私たちを引き上げるために来られました。少し前で、イエスさまが最初の嵐を静めたとき、(8章27節)弟子たちは、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえを従うではないか。」と言いました。しかし今回は33節、『本当に、あなたは神の子です!』と言いました。やっと、イエスさまがどういうお方であるかを理解し始めたのです!

34節の言葉を注意深く見てください。「一行は湖を渡り」この言葉がとても重要なのが分かりますか?22節では、イエスは弟子たちを先に向こう岸へ行かせました。ここでは、「湖を渡り」とあります。どこを渡ったのでしょう?35節では、ゲネサレトという土地へ渡ったと書いてあります。いいですか、イエスさまが来る700年前に、イザヤ書43:2で、神さまは預言者を通してこう語っています。「水の中を通る時も、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。。。」旧約聖書で、モーセは紅海を渡る時、弟子たちの祖先たちを導きました。しかし海の上を歩き、弟子たちを湖の向こうへ渡らせたイエスさまは、モーセよりも偉大です。そして、この時からそれほどの日数も経たないうちに、イエスさまが園で再び祈るのを見ます。そこでイエスさまは弟子たちにこう言いました。

マタイ26:38-39

「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」

イエスさまは、とても悲しいとはどういうことであるかを理解していました。彼は、「私の魂は、死にそうなほどとても悲しんでいる」と言いました。イエスさまは、恐れの中で生きることがどういうことか分かっていました。彼は、神の裁きを畏れて弱さを感じていました。イエスさまは、「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と言いました。分かりますか?イエスさまは、私たちを裁きに来たのではなく、私たちに対しての神の裁きを代わりに受けに来てくださったのです。旧約聖書で出てくるヨナは、嵐の中にいました。なぜなら彼は神に従わなかったからです。イエスさまは、私たちの不従順さに対する神の裁きを受けにきてくれたのです。私たちが最大の嵐を切る抜けるために、私たちに恵みをもたらすために、十字架にかかってくださったのです。私たちが飲むべきだった裁きの杯を代わりに飲んでくださったのです。私たちが赦されるために裁かれたのです。十字架の上で最大の苦痛に耐えてくださったのです。そして私たちの恐れを信仰に変えるために来てくださったのです。だから、あなたがキリストの内にあるなら、あなたは文字どおり、死の岸から命の岸へと渡ったのです。もしイエスさまがあなたのために最大の嵐に耐えてくださったとしたら、明日何が起こっても直面できます。人生があなたにもたらすどんなことも、直面できるのです。

だから、35-36節で「それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」とあります。人々は、イエスさまが嵐を通って、彼らを癒しにいたことを知っていたでしょうか?イエスさまは、私たちを癒すために大きな嵐を耐えられました。私たちを癒すために苦しまれました。ここでの癒しは、将来、イエスさまが全ての人を癒し、全てを新しくする神の国がくることのしるしです。いつの日か、イエスさまは戻ってきて、世界を癒し、この世界があるべき姿になるように回復させます。そしてイエスさまが戻る時、私たちを湖の向こう岸へと連れて行ってくれるのです。そこは、病気も、死もない命に溢れた場所です。

恐れでいっぱいの弱い弟子たちは、最終的に喜びにあふれ、神のひとり子、イエスさまを賛美しました。だから、今週、毎日の生活の中でイエスさまを賛美しましょう。イエスさまが、私たちが受けるべきだった最大の裁きという嵐を耐えてくださったというこの真実の中で勇気を持ちましょう。そしてこの時期、神さまと2人で過ごす祈りの中で、私たち自身や私たちの周りの人々、世界のために祈りましょう。神さまは、私たちが祈りの中でへり下る時、私たちの祈りを聞き、私たちの国を癒してくださいます。

Sermon Video in English
Walking By Faith When Drowning in Fear | Corona Crisis Response | Matthew 14: 22- 36 | Pastor Joey Zorina

鍵がかかった扉と空っぽの墓 (ヨハネによる福音書 20:19-29)

鍵がかかった扉と空っぽの墓 (ヨハネによる福音書 20:19-29)

2020年4月12日(日)| ジョーイ・ゾリーナ牧師

今日、私たちがイースターをお祝いするこの時、コロナウィルスの感染拡大によって、多くの皆さんが、ソーシャル・ディスタンスで、家で過ごしていると思います。面白いことに、今日は、世界で最初のイースターの日の夜に、恐れから鍵をかけ、家の中にいた初期の弟子たちのことを見ていきます。今日のタイトルは、ヨハネの20:19ー29より「鍵がかかった扉と空っぽの墓」です。3つのポイントは、1. 閉じた扉の後ろで私たちを無力にさせる恐れ 2. 私たちを使命へと準備させるキリストの平安 3. 不信仰を信仰に変えるキリストの復活、です。

1.閉じた扉の後ろで私たちを無力にさせる恐れ

19~20節
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」

ここで、弟子たちは、鍵をかけたドアの後ろで恐れを抱いていましたよね?イエスさまが、金曜日に殺されて、その3日後の日曜日の夜の話です。19節に、「日曜日の夜に、ユダヤ人を恐れて、弟子たちは家の中で鍵をかけていた」とあります。(ユダヤ人の宗教的指導者たちのことです)なんでユダヤ人の宗教的指導者を恐れていたのでしょう? イエスさまの伝道活動を、いつも宗教的リーダーたちは嫌っていました。決まりごとを守るだけの「宗教」は、平安ではなく、絶えない不安をもたらしていました。それは、恐れを基にした宗教でした。人々にたくさんの不安を与えました。イエスさまに魅力を感じていても、7章13節にあるように、「ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」のです。ユダヤ人たちの、恐れが基になって、決まりだけを重視した、律法的な宗教は、霊的に抑圧的なものでした。

公に、イエスさま側の人間だと言うことは、公共での屈辱と処刑を味わうことでした。今日の世界でも多くの場所でこのようなことが起こっています。ここでの弟子たちは、たくさんの恐れを抱いていました。人間を恐れました。恥を恐れました。そしてユダヤ人に殺されるかもしれないと、死を恐れました。あなたに質問があります。あなたが一番恐れていることは何ですか?その大きな恐れは、あなたを奴隷のように縛り付けていますか?「恐れ」と言う言葉に注目してください。それは、「大きな苦痛、差し迫った痛みに対する強い懸念により起こるもの、危険、悪」などを意味します。あなたの最大の恐れは、あなたに何を訴えかけてきますか?いいですか、あなたの恐れは、あなたの心の中の偶像(神さまよりも愛していることや優位にしていること)を示しています!コロナウィルスのこの状況を目前にして、ほとんどの人々は当然、健康、仕事、家族、友達を失うことを恐れます。しかし、どれほどの恐れでしょうか?それは私たちを無力にさせていますか?私たちの多くは、自宅の中で過ごす時、未知のものへの恐れに葛藤する姿を見るでしょう。いいですか、私たちの恐れの根底にあるものは、死への恐れなのです。なぜなら、死は、人生の終わりだと知っているからです。死は誰にでもやってきます。世界で一番貧しい人にも、世界で一番お金持ちの人にも、一般人にも、一番有名な人にも!死は、その時に違いはあっても、この世で一番平等に起こるものです。では、死が、あなたの家のドアを叩いたら、どうしますか?弟子たちは、その日曜日の夜、恐れおののいて鍵をかけた家の中にいました。イエスさまが彼らのところに来ました。19節の、後半には、イエスが来て真ん中に立ち、とあります。そして、「あなたがたに平安があるように」と言われました。イエスさまは、弟子たちにとって、最大の恐れを感じ、一番弱さを感じる時に来てくださいました。19章で死んだはずなのに、そのお墓が今は空っぽになっている、その方が現れたのです。気付きましたか?イエスさまは、超自然的な力で鍵のかかったドアを通り越して来たのです。なぜなら、死でさえも、イエスさまに鍵をかけ、抑えておくことはできなかったからです。そして、ここでイエスさまは、彼を見捨てた弟子たちを懲らしめに来たのではありません。思い出してください。イエスさまが捕らえられた時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マルコ14:50)

しかし、ここでイエスさまは、恐怖に震える弟子たちのところに、彼がよみがえったことを証明しに来られました。何と誠実で、恵み深い友でしょう!20節では、「手とわき腹とをお見せになった。」とあります。いいですか、キリストの復活は歴史的な事です。イエスさまが十字架で死なれた後、19章34節では「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。」とあります。わき腹を刺すとは、イエスが本当に死んだかどうかを確かめるためにした行動でした。しかし、ここで、イエスは弟子たちに自分が復活したことを証明するために、穴が空いた手とわき腹を見せてくれたのです。霊的な話ではなく、実際に身体に穴が空いていました。イエスさまは、本当に死からよみがえり、そしてこれは、これから復活を証明していく始まりでした。

では、恐れでいっぱいの弟子たちはどのように応答したでしょうか?「弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。死を恐れて鍵をかけて家の中にいたこの弟子たちは、キリストの復活を目の当たりにしたのです!そして彼らは、よみがえったキリストをみて「喜んだ」のです。いいですか、ユダヤ人の、律法的な宗教は絶えない恐れをもたらし、死をもたらしました。しかし、よみがえったキリストは、恐れを喜びに変えにきてくれたのです。イエスさまは、私たちの最大の恐れを追放し、平安と喜びを与えてくれました。では次のポイントを見ていきましょう。

2.私たちを使命へと準備させるキリストの平安

21-23節
「21イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

21節をよく見てください。イエスはもう一度、「あなたがたに平和があるように。」と言われました。19節で、すでに「あなたがたに平安があるように」と言っておられます。そしてここでイエスさまはもう一度言いました。これ、重要ですよね?「あなたがたに平安があるように」と言われました。ここでの平安、という言葉の意味は、神さまと人間の間の平和な関係、ということです。ここで質問です。

Q. あなたは今日、神さまとの関係に平安がありますか?あなたは、今、神さまと平安を持つことができます。なぜなら、イエスさまが復活したからです。イエスさまは「あなたがたに平安があるように。父である神がわたしをあなたのところへ遣わしたのだ。」と言いました。イエスさまは、罪、崩壊、苦しみのある世界へと、父なる神様によって遣わされました。神さまとの関係を正しく戻すために来てくれたのです。有名な3章16節の聖書箇所を覚えていますか?「神は、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」そしてここで弟子たちにこう言いました。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と。すごくないですか?イエスさまは、弱くて、臆病で、恐れに満ちた弟子たちを鍵をかけたドアを超えて、世界に遣わそうとしたのです。言い換えると、このソーシャル·ディスタンシングの時は、あなたの使命のための準備期間です。どれだけ信仰が大きいかで使命への資格が与えられるということではありません。あなたを使命へと準備させるのに、キリストは十分なのです。

三位一体のそれぞれの神の働き全てが関わっていることに気づいてください。父が、ご自身と罪びとたちとの関係を回復させるために、イエスさまを遣わし、イエスさまが、弟子たちを送り出そうとし(21節)、そして彼らに、彼らの人生と使命のために聖霊を与えました。(22節)「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。 』」イエスは弟子たちに平安を語り、彼らに息を吹きかけ、聖霊を受け取りなさい。と言われました。これは、さかのぼって、創世記2:7での世界の創造を思い起こされますよね?

神さまがアダムにどうやって命を与えたか覚えていますか?神さまがアダムに息を吹きかけたとき、アダムは生きた魂を持ちました。しかし、ここでは、キリストの息が、弟子たちに新しい人生を与えました。驚きです!!誰でも、キリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。(2コリント5:17)そして弟子たちは、ペンテコスト(聖霊降臨)の時にもっと聖霊の力を受けたのです。(使徒)それは、聖霊に満たされることなしでは、私たちは効果的な証人にはなれないのです。

では、どうやってキリストの平安と聖霊を持つことができるのでしょうか?ただ単純に受け取るだけです。なぜなら、イエスが、「平安があるように」と後すぐに「聖霊を受けなさい」と言っておられるからです。「受ける(Recieve)」とは恵みの言葉ですよね?キリストの平安はただ与えられ、受け取るものです。何かをしたから、得るものではないのです。聖霊は、ただ与えられ、受け取るものです。何かをしたからもらえるものではありません。いいですか、恐れによって無力になった状態は、あなたの息を取り去ります。死への恐れは、あなたの息を取り去ります。「死」そのものは、文字通り全ての息を絶やします。しかし、イエスさまは、人生に命を与えるために、平安を与えるために来られました。あなたの恐れを、落ち着かせる人生と平安が与えられ、困難な世界を乗り越えられます。14章27節では、「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」とあります。分かりますか?キリストの平安は、慰めと、保証をもたらします。そして聖霊は、私たちを福音の使命へと準備させます。23節では、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」とあります。それは、とんでもない特権で、当然の責任です!ここでイエスさまは、弟子たちに人々の罪を赦す力があると言っているのではありません。それよりむしろ、救いを受け取る人は、赦されるということです。一方で、差し出された救いを受け取らない人は、赦されないままになるのです。とんでもないですね!赦されない状態のままにいるということは、神さまとの間に平安がないということです。罪を赦されないままの状態でいるとは、永遠に本当の平安が私たちの内にないということです。しかし、良いお知らせは、イエスさまが本当の平安をもたらすために来てくれたことです。いいですか、恐れに満ちた、弱い弟子たちは、聖霊の力により新しい人生、平安、力を持って遣わされていくのです。

では最後のポイントです。

3.不信仰を信仰に変えるキリストの復活

24-29節
「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

さて、なぜイエスさまが来られた時、トマスは他の弟子たちと一緒にいなかたのでしょう?24節では、「イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった」とだけ書いてあり、なぜいなかったのかその理由は書かれていません。私たちが知っている情報の全ては、トマスは一緒にいなかった、ということです。今日でも、誰にも頼らないような、非常に独立した精神を持っているように見えるけれども、それは、誰かに対して責任を負うこと、お互いの人生の責任を負い合わない、そういう人もいます。しかし、ここでトマスを見て、他の弟子たちと一緒にいなければ、信仰が深まっていかないことが分かりますよね?25節では、他の弟子たちが、トマスに「わたしたちは主を見た」と言った。とあります。しかし、トマスは「いやいや、自分のこの目で、あの方の手に釘の跡を見るまで、この指を釘跡に入れてみるまで、この手をそのわき腹に入れてみるまで絶対に信じない。」と言いました。

トマスはこの時、実際に復活したイエスさまに会った、たくさんの人たちから、話を聞きました。それでも、彼は証拠を求めました。さて、皆さんは、リチャード・ドーキンスという有名な無神論者を知っていますか?リチャードは、こう言いました。「トマスは、科学者の守護聖人だ。」「宗教的信仰は、証拠がないというだけのことではない。その証拠を求めない信仰は、屋上から叫ぶような、プライドと喜びだ。なぜ他のクリスチャンは、トマスの疑いに対して批判的なのか?他の弟子たちにとっては、証拠が不十分でも、信仰で十分だったから、美しい模範として見られている。一方で、疑うトマスは証拠を求めた。彼は科学者の聖人であるべきだ。」

他の弟子たちに証拠が不十分だった、というのは真実でしょうか?トマスだけが、証拠を求めていたのでしょうか?面白いのは、20章1節で、全ての弟子たちは、マグダラのマリアの、墓の中にイエスの遺体がないという話から、現場に行って、実際に本当にないことを見て、信じました。例えば、6-8節で、ヨハネとペテロは、イエスを包んでいたはずの亜麻布が置かれているのを見ました。これは証拠の一つです。しかし、9節で、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった。」とあります。旧約聖書の全てはイエスさまを指しているからです。16節で、マグダラのマリアでさえも、イエスさまを目の前にして話し、それがイエスさまだと気付いたのは、イエスさまが彼女の名前を呼んだ時でした。そして、ここで、他の弟子たちも来て、そしてトマスに言いました。「私たちは、主を見た!」それは視覚的証拠です。彼らは、イエスを見たのです。それは、証拠と、視覚的経験を通してキリストが復活したという信仰を、弟子たち全員が持ったということです。後に、使徒パウロは1コリント15:6で、イエスは「500人以上もの人たちに同時に現れた」と記しています。500人が同じ瞬間にイエスさまを見たのです。これも視覚的経験です。

だから、トマスも、ある意味、別に他の弟子たちとそんなに変わりはないですよね?彼も、他の弟子たちが見たように、見たかったのです。科学的発見の過程は、神様からの贈り物です。26節では「弟子たちはまた家の中におり。。。」とあります。そして、その時はトマスも一緒にいました。ドアに鍵がかかっていたのに、イエスさまは彼らの真ん中に現れました。そして、「平安があなたがたにあるように。」と言いました。イエスさまは、自ら来てくれたのです。自ら、弟子たちが自分を発見するように、来てくれたのです。来て、ご自身を明らかにしてくださったのです。来て、弟子たちの真ん中に立ってくれたのです。イエスさまは、時間や空間を超える方です。イエスさまは、他の弟子たちに与えたように、トマスにも福音の平安を与えに来たのです。分かりますか?他の弟子たちに、復活した証拠を見せたように、トマスにもその証拠を見せに来てくれたのです。27節で、「あなたの指をここに当ててごらん。私の手を見て。そしてわたしのわき腹にあなたの手を入れてごらん。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言いました。私たちの心に、どれほど、信じない心が何層にも重なっているのが分かりますか?イエスさまにある信仰の成長は、過程であり、旅なのです!トマスは、疑ったのではなく、信じなかったのです。そして、イエスさまは、その信じない心を信仰へと変えに来てくださったのです。

そしてついに、トマスは28節でこう言います。「私の主、私の神よ!」トマスは、イエスは、復活したキリストであり、神の一人子だと告白しました。29節ではイエスさまはなんと言いましたか?「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」イエスさまのこの問いかけは、批判して責めているのではありません。弟子たちを育てるための、優しい質問でした。トマスを教え、導き、トマスが成長した瞬間でした。イエスさまが言った、「見ないのに信じる人は幸いだ。」という意味は、イエスさまは、すぐに天に昇っていかれるから、後の人々に、この時弟子たちに会ったようには会えないけれども、福音を聞いて、イエスさまを伝える話、メッセージを聞いてイエスさまを信じる人々のことを指していました。

だから、今日、もしあなたがまだキリストを見ていないけど、イエスさまを信じているなら、あなたのその信仰は神様からのギフトです。あなたが、イエスを信じる者であることに不思議と驚きを感じたことはありませんか?あなたが、信じる者であること、クリスチャンであるということは、奇跡なのです!ローマ10:17では、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とあります。もしあなたが、信仰を強めたいなら、あなたがすることはべき必要な全ては、毎日、キリストの言葉を聞くことです。イエスさまは、信仰は、理屈以下ではなく、理屈以上のものだと言います。信仰は、新しい目でイエスさまを見ることです。新しい目、あなたの心の目で、です。トマスは、発見の過程の中で、彼一人での力では科学的結論に到達することができませんでした。だから、イエスさまが彼のところに来て、言ったのです。「わたしの手を見てなさい。あなたの手をわたしに当てなさい。」

この瞬間、トマスの目はついに開かれました。彼はイエスに「私の主、私の神!」と言いました。今日、あなたがこのメッセージを見て聞いていて、まだイエスにある信仰を公に告白していないなら、告白することを励ましたいです。イエスさまは、トマスに言ったように、あなたにもこう言われています。「見ないのに信じる人は、幸いです。」信じるということは、キリストを見るということです。あなたはイエスを、あなたの心の目で、信仰の目で見るのです!これが、イエスさまが言われている、「祝福された、幸せな」信仰です。

イエスさまは、平安の祝福とともに来られました。なぜなら彼ご自身が私たちのために呪いを受けられたからです。私たちが信仰によって祝福されているのは、私たちの不信仰のために、イエスさまが呪われたからです。私たちが死ぬべき罪のために、イエスさまは十字架にかけられました。何にも罪を犯していない、世界で一番きよい手は、十字架の上で、釘を打たれました。私たちのために。私たちの手が、他の人々を助け、仕えることができるようにするために。イエスさまのわき腹は、私たちが癒されるために刺されました。そして釘を打たれた彼の手は、私たちを前進させるため、導いてくれます。イエスさまは、私たちが生きるため、2度ど、堕落を味わうことがないようにするため、死から復活されました。地獄のどんなドアも私たちを閉じ込め、鍵をかけることはできません。死は、私たちに対してその力を失ったのです。いつか、イエスさまは再び来られ、私たちの卑しい身体を彼の栄光の身体のように変えてくださるのです。あなたが病気だったり、身体的な痛みで苦しんでいたら、いつかイエスさまは、あなたに二度とその痛みのない身体に造り変えてくださるのです。

今日、イエスを見ましょう。イエスを受けましょう。そして、イエスが戻ってくることを待ち望みましょう!その日はすぐにやってきます!

Sermon Video in English
Locked Doors And The Empty Tomb | Covid-19 Series | John 20: 19- 29